俺屍

□雨の予感
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あんなにも晴れ渡っていた空に、一つ二つと雲が浮かんで、それは小さな予感だったのだと今更ながらに思った。

「…イツ花、今日は冷えるねぇ」

つと空を見上げて、傍らに控えるイツ花に声を掛けると

「そうですね。もうじき、冬になりますし」

−…そういえばこの間悠様も寒いと騒いでらっしゃいました。
今日は皆様のお体があたたまるように、おでんにしましょうか

任せて下さいと、にっこり笑って、そう紡ぐ。

嗚呼、そうか。
もう冬に、なるのか。
私にとって、二度目の冬。
息子の悠にとっては、はじめての。
けれど、この悪寒にも似たそれは果たして寒さだけのせいだろうか

ぼんやりと思考を巡らせながら、

「そうね、きっと皆喜ぶわ」

イツ花の言葉に調子を合わせると、こくりと頷いたイツ花は

「はい!では当主様、イツ花はこれから下ごしらえをして参りますので、ご用の際には遠慮なさらず呼び出して下さい」

勢いよく立ち上がり、一礼するが早いか、ぱたぱたと走って行ってしまった。

「…ふふ、元気な子ね。もう行ってしまったの」

それを見届けると、ふと目を伏せて、敷いてあった布団に静かに横たわる。

この感情の在り処は何処だと言うのか。
ただ、晴れた空に雲が多く浮かんで見えただけ。
ただ、寒さを感じただけだ。
今まで何度も目にしてきた、ただそれだけの事象にここまで悪寒を覚えるのは何故?
この感情は、弱く、けれど確かに自分の中で渦巻いて、焦燥に駆られていく。
この感情は、恐怖だろうか。
それとも不安、だろうか。

「…はっ、こんな時に会いたいだなんて言ったら、右京は困るかしら?」

ガタガタと本能的に震える体を抑えながら、助けを求めるように巡った思考の中で1番に浮かんだのは、自身と交神してくれた神、黒鉄 右京その人で。
家族より先に浮かんだその顔に、小さく言葉を漏らし、苦笑した。

来る訳ないと、理解ってる。
それでも、言わずにはいられなかった。
不安で、苦しくて、切なくて。
ただ、彼の力強く包むような笑顔を思い出したら、泣きたくなって、想像だろうと助けて欲しいと思ってしまったのだから。

「…っ、く…っ。…う、きょう」

口になど出してしまったせいだろうか。
まるで栓をきたように、堪えていたものが爆発するように、ぽろぽろと涙がとめどなく流れて。
ぐにゃりと歪んだ視界に、また涙が溢れる。

「…っ」

「…なーに、泣いてやがんだよ。俺、前にも言わなかったか?」

不安な事や辛い事があったら、いつでも俺を呼べってな

涙を堪えようと俯くと、ふいに頭にあたたかい感触と、ずっと聞きたかった彼の声。

「…う、きょう…っ!右京…っ」

涙に濡れたままの顔で、情けないとは思いながらも、右京の胸に飛び込んだ。

「…おまえは、よく耐えた」

多くの辛い事や、哀しい事。
当主としての責任。
それらの多くの重荷に。

「…おまえは、自分に厳しく当主らしく在った」

誰かに頼りっぱなしにはなりたくないと、多くの困難に耐えた。
甘えないようにと、こんなに追い詰められるまで俺すら遠ざけた。
克己心はおまえの美徳だった

「…だから、もういいだろうが」

誰かに、甘えて、縋って、泣いてもいい。
もういいんだ

右京の腕の中、静かに右京の言葉を聞きながら、せめてもと涙を堪えようと唇を噛んで声を殺していた彩乃は、その言葉にぽろぽろと零れる涙をそのままに右京の広い胸に顔を埋めて泣いた。

それはまるで、今まで溜めていた全てを洗い流すようにであり、この世に未練を残さぬようであった。

その様子を静かに見守っていた右京は、泣き止むまで、あやすように背を撫でていたのだが

「……なぁ、彩乃?」

彩乃が落ち着いたのを見計らって、小さく声を掛けてきた。
それに、何?と顔を見せぬようにと俯きながら問えば、

「…おまえの命に、陰りが見え始めた」

小さく、痛みに堪えるように、そう呟いた。

「…え」

「イツ花はまだ何も言ってないだろうが、命に陰りが確かに在る」

目を見開いて、呆然と右京を見つめると、もう一度頭に染み込ませようとするようにゆっくりと、そう紡ぐ。
その時、ぽつりと雨音が小さく響いたのを、頭の片隅で聞いていた。
これは、終わりまでの、カウントダウンなのだろうか。

「…だから、来たの?」

今、自分の感情がどう在るのか理解らない。
哀しい、寂しい、切ない、辛い。
けれど、確かな安心。
それは、目の前の男にもたらされたものではなかったか。

「…あぁ。おまえが不安そうだったから」

伝えたかった。
俺はいつでもおまえを見てるし、おまえをきちんと看取って、おまえの御霊をきちんと上に連れて行ってやると。

「…それに、家族は居なくても、おまえには俺がいるだろ」

上に逝ったら、俺がずっとおまえを愛してやる。
だから、怖い事も不安な事も何もないんだ、と。

顔を朱に染めながらも、視線を外す事はなく、真剣にそう紡ぐ右京は、やはりかつてとなんら変わりはなくて。
真っ直ぐに私を愛してくれた時のままで。
ふと笑みを漏らしながら

「…何言ってんの、右京。旦那さんも立派な家族でしょ」

「…彩乃」

つと右京を見上げ、そっと右京の手に、自分の手を重ねる。

「イツ花を呼ばねば、なりませんね」

待っていて、残りの生を全うしたなら、貴方と共にそちらに逝くから。
そうしたら、今まで我慢していた分、沢山お話をしよう。
沢山愛を語り合おう。
だから、待ってて


雨音の向こう側

(大丈夫、もうそちらに逝く事に恐怖も不安もないよ−…そちら側には愛しい貴方が居るのだから)

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