大戦

□6月の花嫁
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連日の雨は止み、晴れ間から時折日が射す午後だった。
ぼんやりとした光の中で父親は1人胡床(折り畳みの椅子)に腰掛け、昔を思っていた。その意識は深い思い出の底へと沈み込み、端目には眠っているようにも、何か思い悩んでいるようにも見えた。

「親父…」

ゆっくりと目を開けると、純白の衣装を纏った息子の姿があった。控えめに、かつ繊細で優美な装飾を施されたそれは余りに眩しく、思わず関羽(忠義)は目を細めた。

「似合うだろ、これ。あいつが選んでくれたんだ」
「あぁ、似合っている。似合っているとも」

へへ、と笑う息子の頭を撫でようと伸ばした手を関羽は途中で止めた。綺麗に整えられた身支度を乱してはならないと。ただそれだけの理由が、今の関羽には途方も無い壁のように感じられた。
蜀の桟道が、赤壁の断崖が、荊州の壇渓が、自分と息子の前に立ちはだかっているかのようだ。
五つの関を越え千里を走ろうとも辿り着けない程の遠い地に、息子は――関興は行こうとしている。不安と寂寥が胸を占めた。愚かな考えだと自分でも分かっていた。息子はすぐ近くにいるのだ。今も、これからも。だが…。
軍神と呼ばれ皆に畏怖された関羽でさえも、この感情をどうすることも出来ずにいた。

「親父?」

息子の声にはっと顔を上げる。怪訝そうな顔が目の前にあった。次の瞬間、関羽は胸元に確かな質量を感じた。息子が、抱き着くように体を預けていたのだ。幼い頃に何度も何度もしてきたように。

「そんな顔しないでくれよ。俺はどこにも行かないからさ」
「…興…」
「大好きだからな、親父」

衣装の乱れなど気にも止めず、関興は父親にしがみついて笑った。関羽も、今度は躊躇うことなく大きな手でその頭を撫でた。くすぐったそうに笑う息子の顔は幼い頃と全く変わらなかった。
気が付くと、関羽の頬を一筋の涙が伝っていた。

「やめろよ親父、俺まで泣いちまうだろ。大丈夫、俺はあいつと…」

「悪い関興!遅くなったッ…!」

城門が砕け散るかのようなけたたましい音を立てて飛び込んできたのは、同じように美しい黒の服を着た張苞と父親の張飛だった。
慌てて駆け付けた所為か、気品に満ちた粋な衣装は大きく乱れている。

「馬鹿野郎!だから早く準備しろって言っただろうが!」
「痛ぇっ!分かったから殴らないでくれよ親父」

特別な日だというのに普段となんら変わらぬ親子の姿に、関羽は自然と頬を緩ませていた。

「遅ぇんだよ、張苞!」

からかうかの様に笑いながらそう言うと、関興は関羽から離れ、二人に気づかれぬよう目尻に溜まった涙を腕で擦った。そしてはにかむような笑顔で、父親にだけ聞こえる声で続けた。

「あいつと幸せになるからさ」

関羽の心にはもう、不安は無かった。


薄曇りの空はこの季節には珍しい青空へと変わっていた。準備が整った会場には国中の者が集まり、二人を祝福していた。
腕を組み歩いて行く二人を前にし、関羽はゆっくりと腰を上げた。心は空と同じくらいに晴れ渡っている。また涙が一筋流れ出したが、拭うことはしなかった。泣くのはこれが最後だ。自分に言い聞かせ、しっかりと大地を踏みしめると大きく息を吸い込む。
幸せになれ、息子たちよ。

「――皆の者――――!!!」

嬉しそうに笑う二人も、既に酔い始めた張飛も、桃の花びらを撒きまくる劉備も、羽扇で日を避ける諸葛亮も、誰もが彼の叫びに振り向いた。

「決死の覚悟で進むのだ――――――ッ!」

号令は空気を震わせ、それに呼応するかのように次々と兵たちは腕を振り上げ鬨の声を上げた。それらは互いに重なり一つとなって怒濤のように広がっていく。

「お――――――!!!」

鐘の音が響き、鳩が飛び、花火が上がった。兵卒たちは駆け出した。軍師も武将もそれに続く。誰もが真っ白だった。誰もが驚く程に白く輝き、光の渦が辺りを包んでいった。その中心で一際目立つ笑顔の二人。劉備と張飛はそっと関羽に近寄り、肩に手を置くとにっこり頷いた。

「お疲れ、お父さん」

幸せそうな息子たちの姿を見守りつつ、関羽は滂沱と流れる涙もそのままに微笑んだ。


なお、この日の忠義の大号令は三日三晩効果が続き、白く光りながら高武力で疾走する蜀の兵たちに各国は仰天したという。






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