布団2
□オトコノタテマエ
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23時を越えた辺りから、白い結晶が降りはじめていた。
それを見届けた運転手は、片手で暖房のスイッチを弱から中に切り換える。
「暑くないですか」
「いえ、大丈夫です」
優しそうな初老の運転手に、私は答えた。
やがて綺麗に磨かれた窓が曇りだした頃、腕を組んでだんまりを決めこんでいた隣の男が口火をきった。
「で、どうするんじゃ」
「どうって。…別れるんでしょ?」
世間話でもするように、話しだす私達。
この運転手、可哀想に。
気遣いの行き届いた人だから、きっと今頃、突然始まった別れ話の途中で目的地へ到着してしまったらどうしたものか、とでも考えているのだろう。
バックミラー越しに、運転手の眉間にしわがよっているのが見えた。
だが、幸いなことにどこか前方でスリップ事故があったようで、タクシーはぴかぴかと光る渋滞の最後尾についた。
「これはなかなか動かないな」
運転手のしゃがれた声が、車内に響く。
それが私には「どうぞ存分にお話しください」と言っているように聞こえて、何とも可笑しかった。
この人にも、かつて愛した人がいたのだろうか。
そんなふと浮かんだ疑問は、やはりすぐに消えた。
「別れる別れる言うて、本当はわしと別れとうないんじゃろ?」
その通りだった。
でも、どうしてだろう。
口から出てくるのは、正反対のことばかり。
「自惚れるのも大概にして。浮気したのはそっちでしょう?あなたが思うならまだしも、どうして私が」
辺りが眩しくて、つい顔をしかめてしまう。
もちろん、理由は他にもあるが。
こんな自分が嫌になる。
「じゃあ、わしが別れんちょってくれと言うたら、別れんがか?」
「………」
「のう」
「…別れるわよ、当たり前でしょ」
スナックの女性と一夜を共にした。
風の噂で久しぶりに聞いた彼の話は、自尊心の強い私を大いに奮い起たせた。
別れてやる。
本気でそう思った。
でも、そんな気持ちは1時間と持たず、その結果、後に引けない程に話が進んでしまったのだった。
「そうがか」
ああ、私の馬鹿。
最後の頼みも振り払って、自己嫌悪も最高潮に達した時、彼が頭をかきながら呟いた。
「わし、ふられたのう」
その一言を聞いて、私は頭から冷水を浴びせられたようになってしまった。
この状況に、とんでもない1つの仮説をたててしまったのだ。
事実だとしたら本当にとんでもない、辛すぎる空想だった。
もしかしたら、彼は私に「ふられた」という惨めな気持ちを味わわせないように、いつかくる別れ話のシナリオを、わざとこのように仕向けたのではないのだろうか。
強気で、1度言葉にしたら後に引かない性格を利用して、自分をふるように話を誘導させて。
「ねえ、辰馬」
「ん?」
意地悪。
「…馬鹿」
「そうじゃのう。わしらは馬鹿ぜよ」
あははと、いつものように豪快に笑う彼の本音が、ようやく見えた気がした。
もう、どうしてこんなに可愛くない女に、そんなに優しくできるのよ。
彼の優しすぎる優しさに、涙が溢れてきた。
ゆっくり「馬鹿じゃ馬鹿じゃ」と繰り返す男は、肩を抱こうともせずに、ただ窓の外を見つめている。
「…ずっ」
今が冬でよかった。
鼻水をすすっても、この寒さに言い訳ができるから。
でも、さすがに暖かい車内で鼻をすするのは、泣いているのがばれるかもしれない。
そう考えて懸命に涙を我慢していると、坂本さんが突然こう言った。
「それにしてもまっこと暑いのう。おっちゃん、暖房消してくれんか」
オトコノタテマエ
私の馬鹿。
何故こんなにも優しいあなたに、辛い優しさを振りまかせるのだろう。