布団3

□愛 think so,
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帰り道、賑やかな繁華街を抜けると見える川原の向こう側。
私はひとり、寂れた屋根付きのホームで電車を待っていた。



(…、ふう)



携帯を開いて時間を確認すれば、まだ現れそうにない終電に自然と溜息が漏れる。
春先にしては寒い夜更けに、それは白い靄となって消えた。



わんわん、遠くで犬が吠える。



ふと、自分が立ちっぱなしであることに気付いた。
周りには誰もいないのに、何を遠慮しているのだろうか。
自嘲気味に口だけで笑い、塗装が剥げかけのベンチに腰掛けた。
つん、と冷たい感触がお尻に広がったが、少し我慢すれば同じ温度になった。



(明日も会社、か)



膝の上で硬く握っていた拳から、遠くに輝く真っ赤なランプの波へ視線を移す。
まるで都会の隙間を縫ってうねうねと蠢く赤い芋虫のようだ。
時たま聞こえるクラクションに、もう少し寛大に運転すればいいのに、と思う。



私は、ついさっきまであの雑踏に埋もれていた。
色とりどりに煌めく高層ビルの間を、小洒落たBGMの通りを、土石流のような人混みの中を、ひとりてくてくと歩いていた。



てくてく、いや、そんな可愛らしい擬態語ではない。
言うならば、ぽとりぽとり、だ。
足を踏み出す度に、何か大事なものをアスファルトに落っことしている音だ。



ぽつり。



ぎょっと反射的に宙を見上げる。
また同じ音が間隔を狭めながら屋根を叩く。



あ、と声を出す隙もなく、天の貯水庫が底抜けたような土砂降りが小さな駅を襲った。



(…あーあ)



どいつもこいつも憂鬱に拍車をかけたいらしい。



「今日は一日晴れだって言ってたのになあ」
「その『キョウ』はもう終わりましたよ」
「!」



暗闇からの返答に、ぎょっとして振り向く。
すると、たった三段しかない階段のゴール地点に緑色の髪をした男性が佇んでいた。
緑髪を束ねた頭からロングコートの肩口まで、ぐっしょりとまではいかないが雨に濡れている。
きっと駅まであと少しというときに降られたのだろう。



「こんばんは」



切れ長の眼、小さくて理想的な形の鼻、薄い唇。
服に隠れてはっきりとはわからないが、細めに見えて意外と筋肉質そうな体躯。
まさにモデル体型とはこのことだ。



(でも、…嫌味そうな感じ)



独り言を聞かれて内心穏やかではなかった為、礼儀も忘れてまじまじと観察してしまう。
彼は無遠慮な女の眼差しなど何ともない様子で、その羨ましい鼻で小さく笑った。



「おや、私の顔に何かついていますか」



小首を傾げて、にこり、と微笑んだ男性の前髪から滴が落ちた。
葉から朝露が零れるようなその光景に挨拶を吹っ飛ばして、きれいだな、と素直に感じる。



途端、しかし自分は何かとんでもなく恥ずかしいことを考えてしまったのではないかと思い、かっと急激に頬が熱くなった。



初対面の、しかも男性に「きれい」だなんて。



「こ、こんばんはっ」



赤く染まる顔を悟られないよう、ぷいっと緑髪とは反対側を向く。
こんなことをしなくても頼りない電灯と夜のおかげで誤魔化せたかもしれないが、時既に遅し。
一度逸らした視線を元に戻すなど、臆病な私にはできやしなかった。



「お隣り、よろしいですか」
「…どうぞ」



羞恥で火が出そうだ。
自分の影を見つめたまま、お尻を僅かに浮かせて右側にずれる。



「どうも」



短いお礼の言葉と鉄の軋む音が重なって、ゆっくりと揺れたベンチ。



合わせて、どくり、と私の心臓も揺れた。



(いやはや、突然降ってきたもので)
(近くの駅で雨宿りをと)
(あなたは終電待ちですか)



矢継ぎ早ともとれる男性の声に曖昧な返事をしながら、私は全く別のことを考えていた。
隣人の言葉に耳を澄ませばいいのに、一度気にしてしまえば止まらない。



(あの人もこうして私の隣に座ったっけ)



ざあざあ、ぽたぽた、ぴちょん。
沈黙にまざまざと浮かび上がる弾け飛ぶ水音が、忘れたくてしょうがない記憶を引きずり起こす。



(笑っていた)
(それなのに電車が入ってきた瞬間)



(私はあの人の生きる理由になれなかった)



俯いたままだった顔をほんの少し上げて、光っぱなしの向こう岸を覗いた。
雨に希釈されてそこかしこで流れていた液体は、確かあれと同じ色だった。



「あの」



はっと我に返ると、すぐそこに眉根を寄せてこちらを窺う男性の顔。

思わず短い悲鳴をあげて飛び上がる。
ぎし、とベンチが軋んだ。



「な、なんですか」



早鐘のように打ち鳴る鼓動。
自分の心音がうるさ過ぎて、先程までの雨音が聞こえなくなる。
平静を装ったまま、ベンチの端でぎゅっと鞄を胸の前に抱いて、心臓よ止まれ(本当に止まってしまっては困るが)と念じる。



指先の冷たさはいつの間にか消えており、じんわりと汗をかいていた。



「辛そうですが、具合でも悪いんですか」
「い、いえ、大丈夫です」



(僕が守ってあげる)
やめて。



「そう言っても、顔色が」



(君だけだよ)
偽善面なんていらない。



「…、」



(これからもずっと一緒にいるよ)



(愛してる?)
(そう言ったくせにわざとポケットに手を突っ込んで触らせてもくれなかったのは何処のどいつよ)
(挙句の果てに花火みたいに飛び散ってさ)



「あ、あの私、偏頭痛持ちなんです。気にしないでください」



急なフラッシュバックに居た堪れなくて、世界を拒むように両手で顔を覆い隠す。
何度か心配する文句が続いたが、ただ「大丈夫です」と繰り返しているとすぐに止んだ。



また滴たちがコンクリートで砕け散る音が聞こえ始める。



借金を苦に自殺、よくある話だった。



後を追うことも考えなかったわけではない。
彼と同じように死ねたら、またあの時みたいに幸福だった毎日へ戻れると思っていた。



でも、やはり怖かった。
電車を筆頭に、乗り物を前にすると立ちすくんでしまうようになったのだ。
一時間もの道程を徒歩で通った時期もある。



(私だけが私と一緒に生きて逝ける)



大切過ぎたから、彼がいなくなった後の私の心にはぽっかりと穴が空いた。
何か別物で埋めようとしても埋められなかった。
だから自分だけを信じるようにした。



(最期までずっと隣にいてくれる)



我ながら馬鹿げている。
死人に彩られた過去に縛られるほど愚かしいことはない。



本当に頭が痛くなりそうだ。



改めて、私はあの馬鹿な人が好きで大好きなのだと思う。
時が経っても色褪せることなく。



「…泣いて、いるんですか」



それまで黙っていた隣人がぼんやりと口を開いた。
雨に掻き消されそうなほどか細い声だった。



小さく首を振る。
泣く定義が涙を流すことなのであれば、私は確かに泣いていない。



(どうせなら泣いてしまいたいよ)



すぐそこの警笛がけたたましく鳴った。
警笛は私にとって昔も今も別れの合図。



「それじゃ、…さようなら」



濡れて香りが濃くなったのだろう、隣から涼しげな花の匂いが漂ってくる。
鞄を抱え、それから逃げるように線路際へと駆けた。



緑髪も立ち上がったが、追ってくる素振りは見せなかった。



不思議だ。
あの男性の傍らにいると、今まで自分が思い悩んできたことがどうでもいいことのように思えてくる。
心地好くて、ずっと閉じ込めてきた思いまで溢れ出してきそうだ。



これを巷では運命の出会い(もしくはソウルメイト)とでも呼ぶのだろうか。



(なんて陳腐なの)



黄色い線の上に立つ。
遠くから濡れた車両が速度を落としながら滑り込んでくる。
眩しい車内に目を凝らすが誰も乗っていなかった。



よかった、と胸を撫で下ろす。
無人に対してか、それとも彼に出会えたことに対してかはわからなかった。



深呼吸をして一歩踏み出す。



(さようなら)



所詮人間は損得勘定。
伝えるものは嘘偽りだ、戯れ事だ。
どれも絶対なんてありやしないんだ。



(さようなら、汚い自分。今日まで辛かったね。恋人に裏切られて、誰も信じられなくなってしまったね。でも大丈夫、それもあと二歩で終わるよ)



耳を劈く鉄の断末魔。
そこへ吸い込まれるように重心を委ねた。



瞬間、右の手首に激痛が走る。
誰かの腕。
引っ張られる。



(ああ)



遠退く救いの道。
空いている手を伸ばした。
それも掴まれる。



(じゃましないで)



足が縺れる。
背中から広がってきた花の香り。



(いやだ)



やめて、せっかく決心したのに。
こんなことをされたら揺らいでしまう。



(あの、もしよろしかったら)



薄い唇が耳に触れて私の鼓膜を震わせる。



適当な定時放送、鉄同士が擦れ合う金切り声、天井を嬲る豪雨。
聾者になったようにそれらの雑音はまったく聞こえないのに、彼の声だけははっきりと聞き取れる。



「…ほんと、に?」



鼻奥がじんとすることもなく涙は当たり前だと言うように溢れてきて、乾いたコンクリートの上に一粒、また一粒と落ちていった。



「泣かせてしまいましたね…」



困ったように笑って濡れた跡を指先でなぞる。
その痛いほどの温かさが私を更に泣かせているとも知らずに。



「今ここで『馬鹿な男だ』とでも蔑んでくださって結構です」



その優しい手に髪を撫でられれば、もっと視界が歪んでしまう。
どうして、この人はこんなにも私が渇望して止まないことをすんなりとやってのけてしまうのか。



「いかがですか」



そんな澄んだ瞳で言われたって答えはもう決まっている。



返事の代わりに振り向いて頬を押し当てると、すぐさま私とは比べものにならないくらいの強い力で抱き締められた。
泣きじゃくって匂いなんかわからないはずなのに、やはり花のような香りが肺の奥まで届いてくる。



信じるのは怖い。
彼の腕の中にいる今すらそうだ。
名前も知らないこの人に突き放される未来を恐れる自分がいる。



(けど、)



全部涙と一緒に視界から飛んでいく。
電車も過去もまだ来ない未来を杞憂する気持ちも、何もかも。



久しぶりに頭の中がクリアになる、そんな気分だ。



「………」



パズルのピースが噛み合うように、自然と瞳と瞳が絡んだ。
これから予想される事態に思わず頬が蒸気する。
瞼を下ろそうと睫毛を揺らす、時。



ぷしゅう、と間抜けな音をたてて開いた扉。
夢から覚めた心持ちで見やれば、乗りますか、と中から現れた車掌が気まずそうに言った。



「…、ふふ」



私たちは悪戯っ子のように目を合わせて微笑み合うと、「すみません、行ってください」とだけ答えた。



そして再び夜へ溶けていく最終便を見送ってから、私はもう一度瞼を閉じるのだった。



愛 think so,



私が、あなたの生きる理由になってもいいですか。



(最期を過ぎても、)
(ねえ、想うから)




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