長編【蛍石は鈍く耀う】
□5.アルメリア
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その日の帰り道、善逸と別れた後。炭治郎の家の前まで来たところで、じゃあね、と振り向く。炭治郎は苦しそうに膝を折り、胸を押さえて俯いていた。
「え?!どうしたの?!」
「ごめん、ちょっと苦しくて…。」
「手伝うから家に入ろう。」
今にも倒れそうな炭治郎を見て、慌てる。とりあえず炭治郎の家へ入り、リビングの椅子に座らせる。久しぶりに炭治郎の家へ来たけど、何も変わっていない。何か飲み物を入れてあげようと、キッチンに立つ。いや、でも救急車の方がいいのかな。
「っ…?!」
ぞわり、と背筋に寒気が走る。コンロの上に、見覚えのある鍋がある。ゆっくりと視線を流し台に向ける。洗って乾いた食器類がそこに、仕舞われずに置かれてたままになっている。
私が、最後に来たときに使った食器類。特に何も変わってない。変わっていないなんて、おかしい。私が最後にここに来たのは何週間も前の事だ。
「なにしてるんだ?」
いつの間にか椅子に座らせた炭治郎が背後に立っていた。振り向くと、先程の苦しそうな表情が一変して無表情の炭治郎がそこにいた。
「た…炭治郎、大丈夫なの?」
「ヒツメは、善逸と付き合うのか?」
声が怖い。なぜこんなに無表情なのか。冷たい視線に睨まれ、視線を外すことができなくなる。
「…さっきのは演技だったの?」
「善逸は、俺がヒツメに執着してるって言った。それは間違っている、とも。」
会話が通じない。少し前の炭治郎を思い出してしまう。
文化祭の準備の日に善逸が炭治郎に言った言葉。詳しくは聞いていないけど、炭治郎の行動を間違っていると指摘したと、聞いた。
「善逸だって、ヒツメの事が好きで、自分のものにしようとしてるのに、おかしくないか?」
「善逸は私の事を好いてくれてるから、」
「じゃあ、俺がヒツメを好きだと言えば問題ないのか?」
ぐっ、と口を噤む。そういう訳じゃない。彼の考えていることが分からない。今の言い方からすると、炭治郎が私の事を恋愛という観点で好きなわけではないことは明らかだ。
「…炭治郎は、どうしたいの?」
怖いけど、ここでまた何も言えずに居るのも駄目だ。今の彼はあの時の彼よりも冷静だ。話せば、分かってくれるのかもししれない。炭治郎は赫い目を伏せて、小さく息を吐く。
「ヒツメを俺のものにしたい。」
炭治郎は私を好きだから独占したい、ではない。彼の私への思いは独占欲そのものでしかない。自分のものにする為なら、偽りでも好き、と口にするだろう。
「ごめん、炭治郎の気持ちには応えられない。」
炭治郎の言いたいことは理解できた。けれど、私にはどうすることもできない。『炭治郎だけの私』にはなってあげられない。
「大丈夫だ。その為に下手な芝居を打ったんだから。」
ぐっ、と腕を掴まれて炭治郎に引っ張られるようにして歩かされる。掴まれた腕が痛い。階段を登って、2階の炭治郎の部屋に連れて来られた。カーテンから差し込む夕陽で部屋の中は仄かに明るい。
ふいに、炭治郎が私をベットへ突き飛ばした。
「痛っ…?!」
突き飛ばされるなんて思っていなかった私の身体はベットへ簡単に沈む。起こそうとした身体を、炭治郎に押さえ込まれる。
「暴れるんじゃない。」
「っ…やめてよ!」
「煩い。」
口を片手で塞がれてしまう。怖い。文化祭の準備の時とは違う。あの時は怒っていたけど、今は違う。
「大人しくしてたら、痛くはしない。」
馬乗りになっている炭治郎の赫い目が、冷たく私を見下ろす。怖くて涙が溢れる。元に戻れたと思っていたのに。謝ってくれたのに。全部嘘だったっていうの?
「殴ると後で面倒なことになりそうだから、出来ればしたくないんだ。」
その言葉に全身が強張る。ひどい事を淡々と言って除ける炭治郎は本当にやりかねない。さっきも、痛いと言っても顔色ひとつ変えなかった。
「…わ、かった…。」
ぎゅっと目を閉じると溜まっていた涙が流れた。炭治郎は馬乗りになったまま、上体を起こして私の制服のブラウスのボタンを丁寧に外していく。何もせず、ただじっと目を閉じて何も考えないようにするのが精一杯だった。
「寒くないか?」
行動とは裏腹に気づかうような台詞が降ってくる。目を閉じたまま首を左右に振ると、そうか、とだけ聞こえて再び炭治郎の硬い指が身体に触れた。
ブラウスの前を開いて、白の肌着が露わになる。それに手をかけようとしたとき、思わず炭治郎に声をかける。
「もう、戻れなくなるよ…。」
一瞬、機械のように無表情だった炭治郎が言葉に反応した。肌着に手をかけたまま、静止している炭治郎を見つめることしか出来ない。
「一度だって戻ってない。だってずっとヒツメは俺に怯えてる。」
そうだ、文化祭の準備の時が初めてじゃない。炭治郎を怖いと思い始めてから、今もずっと私は炭治郎に怯えてる。元に戻ったなんて、嘘だ。善逸に触れられるのは怖くないのに、炭治郎に触れられるのは怖い。その事実を見なかった事にして、私は元に戻ったなんて。そう思いたかっただけなのかもしれない。
炭治郎は、一矢纏わぬ私の身体を携帯のカメラで幾つか写真に収めると、暫くぼうっと私の事を眺めていた。彼の瞳は死んだように光がなくて、どこまでも暗い。私はてっきり、乱暴に抱かれてしまうものだと覚悟していた。けれど彼は女性の裸体を見ても欲望に瞳を揺らすこともなく、ただじっと見ているだけだった。
「すまない。流石に寒かったよな。」
突然、我に帰ったように炭治郎の唇が動く。炭治郎の行動の意味を図りかねる私に、彼はそっと毛布を掛けてくれる。
「好きって、どういう感情なんだろう。」
炭治郎は、言った。酷く悲しい声だった。聞いている私まで、悲しくなるような。
「…相手を尊重したり、相手の為に何かしてあげたい気持ち、じゃないかな。」
その人の為に、自分を犠牲にしてでも何かしてあげたい。少なくとも、私が今まで好きになった人はそうだった。
「俺はヒツメを好きじゃないんだろうな。」
胸が痛くなる言葉を吐いた炭治郎は、泣きながら困ったように笑った。
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