短編

□記憶の彼女
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真っ白な天井。体に繋がる数本の管の先に、規則正しい機械音を奏でる心電図。あれ、俺何してるんだ?

「っ、…」

声の出し方を忘れたかのように、喉で言葉が詰まる。寝転ぶ俺の手を、誰かが握っている。とても暖かくて、安心する、感覚と音。

「…ぜん、いつ…?」

俺の手を握る彼女と目が合う。彼女の目から大粒の涙がぽろぽろと溢れる。何故だろう、彼女が泣くと俺もひどく悲しい気持ちになる。

「良かった…!看護師さん呼ぶから!」

慌てたように席を立つ彼女。俺は彼女を知っている。知っているのに。

「だれ…?」

俺は彼女が誰なのか、分からなかった。





「お前は親不孝者じゃぁぁ…!」

「じいちゃん、死んだみたいな言い方しないでよ!」

病室で俺のじいちゃんは泣いていた。普段厳しいけど優しいじいちゃん、怖いけど尊敬してる兄貴の獪岳。俺の友達の炭治郎と伊之助。皆が涙ながらに助かってよかった、と言ってくれた。

「車と喧嘩なんて俺でもやらねぇ。」

いつもは、俺でも出来る!と言い張る伊之助でさえ背筋を震わせて、そう言った。自分でも事故の時の事は殆ど覚えていない。

「あのさ、女の子見なかった?」

「…女の子?」

炭治郎が、少し肩を震わせたのを見逃さなかった。この病室には、俺を含めて今は5人いる。俺、じいちゃん、獪岳、炭治郎、伊之助。

「俺が目を覚ましたとき、女の子が居たんだよ。」

看護師さんを呼ぶ、と言って綺麗な黒髪を揺らしながら泣いていた、女の子。どこにも見当たらないのだ。目が覚めてから、数日は経っているのに。

「紋逸!これ食べてもいいか?!」

「伊之助、それは善逸のお見舞いに持ってきたんだから伊之助が食べたらだめだ!」

伊之助が菓子折りに手を伸ばすのを、炭治郎が制する。会話が途切れてしまった。どうにも気になる。看護師さんを呼びにいく、と言って出て行った彼女。

『ありがとう。』

だれ、と問うと感謝を返された。事故にあっても耳の良さはいつも通りで、俺は彼女の悲しい音が寝ている間もずっと聞こえていた。目が覚めたとき、彼女の安心する音が大きくなったのに、直後、胸を締め付けられる程の悲しみの音でいっぱいになった。
あれは誰だったのだろう。俺は夢でも見ていたのか?なぜ誰も彼女のことを口にしない?車にはねられたせいで、おかしくなってしまったのか?
この世界に取り残されたような寂しさを感じる。俺は怖くなって、彼女の事をそれきり口に出さないようになった。



事故から1ヶ月程たった、退院の日。じいちゃんが運転する車に、荷物を持ってくれる、と言ってくれた炭治郎と俺は揺られていた。流れていく景色を見て、他愛のない会話をする。だけど、何かが足りない。

「携帯、変えなきゃって思ってたんだった。」

「そういえば言ってたな。一緒に行こうか?」

「携帯ショップくらい、なんとかなるよ。もう歩けるし。」

世話焼きな炭治郎に苦笑する。優しい友人を持ったものだ。

家で団欒や、お風呂を済ませて机に置かれたノートパソコンに電源を入れる。明日携帯を変える前にバックアップを取っておこう。慣れた手つきでマウスを操作してフォルダを開いていく。無機質な音が鼓膜を支配する。

「…あれ?」

思わず声が出た。過去のバックアップデータの方が、今の携帯のデータより容量が大きい。そもそも、俺はなぜ携帯を変えようとしたんだっけ。

何故かマウスを握る手が震える。何か、何かおかしい。震える手で過去のバックアップデータの写真フォルダをクリックする。ディスプレイに並べられた写真の数々。その殆どに、病室で見た彼女が映っていた。手元にある携帯の中に、彼女の映っている写真は1枚もなかった。

俺は、大切な何かを忘れている。俺だけが取り残されて寂しいのではない。俺が彼女を忘れて、寂しいのだ。悔しくて堪らない。なぜ何も思い出せないのか。声も温もりも、音も。覚えているのに、記憶と名前だけがすっぽりと抜け落ちてしまっている。

あの日、俺が一度だけ彼女の事を聞いた時、炭治郎は酷く動揺した。あれは気のせいでもなんでもなかった。気づいていたのに。

部屋着のまま家を飛び出して、写真の枚数が1番多かった公園へ向かう。夜は遅く、少し肌寒い。目的地の公園へ近づくにつれ、だんだんと聞こえる、音。病室で聞いた、胸が締め付けられるような彼女の音。肩で息をしながら音の方へ歩いていくと、簡素なベンチに腰掛けて、彼女は泣いていた。

「ヒツメ、」

俺の口から、するりと彼女の名前が溢れた。

「なん、で…?」

涙で濡れた顔を上げて、俺を見つめる。

「ありがとう、なんて嘘つかないでよ。」

きゅっと口を噤んでヒツメは俯く。あの時、俺にありがとう、と言ったけどヒツメは全くそんな事思ってなかった。

「離れたくないって、聞こえたよ。」

「それは違う…よ…。」

「今も聞こえてる。」

首を振って否定するヒツメを、そっと抱きしめる。ヒツメから俺の事が大好きだって音が聞こえる。

「俺、ちゃんとヒツメを守る。絶対に。」

「でも私は怖い。事故の時だってそうだよ、今でも鮮明に覚えてる。」

ヒツメは震える声で俺に訴える。俺は自分よりも小さなヒツメの身体を強く抱きしめる。

ヒツメは、ある男性から付き纏われていた。ずっと監視されているような生活に疲弊していくヒツメ。警察に届け出ても動いてはくれず、頼りにならなかった。基本的には俺が一緒にいるようにして、何があってもヒツメを守ると決めた。なのにヒツメと横断歩道を信号待ちしていたら、誰かに強く突き飛ばされて。視界がぐるりと回って、身体中に強い衝撃を受けて気を失った。

「犯人は捕まったけど、怖いのはその事じゃないの。これから先、私の目の前で善逸が死んじゃうような事が起きるのが怖い。」

「…俺はすぐ死なないよ。今もこうして生きてる。」

怖かっただろう。俺だって、目の前でヒツメが車にはねられたら冷静でいられる自信はない。そんな事が2度も3度もないとしても、その後も不安で仕方がなくなるだろう。

「私と居ると善逸が不幸になってしまう、そんなの嫌だよ…!」

「俺はヒツメと一緒に居れない事の方が不幸だよ。」

「…そんなの屁理屈だよ……。」

ヒツメの身体の震えが止まって、心地よい音が聞こえる。もし俺が死んでしまう事があったとしても、俺はヒツメと少しでも長く一緒に居たい。

「それに犯人は捕まって、俺は生きてヒツメの側にいるだろ?」

「うん…。」

「俺がヒツメを守りきったんだから、俺の勝ちだよね。」

冗談交じりでヒツメに言ったら、困ったように少し泣きながら笑ってくれた。

「死にかけたっていうのに。」

「結果的に生きてるんだから、問題ないの!」

俺は胸の中にあるヒツメの頭をそっと撫でる。あの時、はねられたのが俺で良かった。

「ヒツメ、大好きだよ。」

「…私も、善逸が大好き。」

小さな彼女は力強く俺の身体を抱きしめ返してくれた。


 

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