長編【下弦は宵闇に嗤う】

□1.円の呼吸の鬼狩り
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その日、私は初めて里の皆の言う『鬼』という存在をこの目で見た。
白い白髪から伸びる二本の角、人間離れした長くて鋭い爪。早く逃げなくちゃいけないのに、足が震えて動かなくて。足元には大量の血と着物と人が転がっている。

陽が沈んでしまった宵闇の中で、鬼は私を嗤う。

「あは、お前もすぐに両親の元へ送ってあげるからね。」

声と共に鬼がこちらへ歩いてくる音がした。
ああ、そうだった。これはお母さんが気に入っていた着物だ。じゃあこの血溜まりの中央に倒れているのは。

「あ、あああ…!」

やっと状況を理解して、嗚咽が漏れる。お母さんは私を守るためにこの鬼と戦った。だけどお母さんは刀鍛冶なだけで、刀を扱えるわけじゃない。お母さんは私の目の前で、鬼の攻撃に倒れたんだ。

「あんたも後で食べてあげるからさ。」

「やめて…っ!!」

かっ、と頭に血が昇る。お母さんの手に握られたままの刀を拾うと鬼の首、目がけて振るう。刀鍛冶の里の皆が打つ日輪刀。それは首を斬ることで鬼を滅することができる唯一の刀。
だけどまだ非力な私の力じゃ、鬼の首を斬ることなんて到底出来なかった。手で刀身を押さえるようにして受け止められ、どれだけ力を込めてもびくともしない。

「刀を持ってても扱えないと意味無いね。」

「っ、…!」

どうして鬼にそんな事を言われなければならないのか。涙がぼろぼろと溢れて、悔しさに歯を食いしばる。この刀で、鬼を滅する事が出来るのに!
鬼が笑いながら倒れているお母さんの腕を掴む。だらり、と力なくお母さんの腕が揺れて、指先から血がぽたり、と落ちて染みを作る。

やめて、やめて!!

鬼が口を開けた時だった。何かが素早く駆け抜けたかと思うと飛沫があがって鬼の腕が地面へと落ちた。

「ぐ…!」

鬼が腕を押さえながら血走った目を見開く。その隙間から血のような液体がぼたぼたと流れている。だけど瞬く間に腕は再生されてしまった。

「お前、鬼狩りの柱だな…!」

天狗の面をつけた男が私の前に立ち塞がる。手には青い刀身の刀が握られている。これが本当の日輪刀の姿なのか。

「答える必要はない。」

風を切るような音が聞こえたかと思うと、男は地を蹴って鬼へと飛びかかる。鬼は舌打ちをして飛び退く。男の方が速く、飛び退いた鬼に追いつくと首へと一閃を引いた。

綺麗だ、と思った。

鬼の姿が一瞬で煙のように掻き消える。天狗の男は消えた鬼を追って走り去ったが、暫くすると戻ってきた。
天狗の男は低く唸るような声を漏らしながら、私の方へと歩いてくる。

「すまない、逃げられてしまった。」

「そう、ですか…。」

「もう少し来るのが早ければ…。」

天狗の面が俯いて、お母さんを見る。男からは表情こそ分からなかったが、切なくて苦しい匂いがする。

「あの鬼の言う通りです。」

天狗の面が、今度はこちらを見た。

「お母さんは刀を扱えなかった、そして私も。」

「だから殺されても仕方ない、と?」

「…ええ、でも。」

私は鬼に届かなかった刀の柄を両手で強く握る。
普段から刀に触れてきて、刀のことをよく知っているお母さんが、それを扱えなくて死んでしまったこと。
所詮鬼を滅する日輪刀とて、私が持てば何の脅威にもならなかったこと。

「でもあの鬼の言う通りなら、」

天狗の男には申し訳ないが、あの鬼を逃したことを幸いだと思った。

「私に斬られたって仕方ないですよね?」

私は涙で濡れた瞳で男を真っ直ぐ見つめた。


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