短編

□君の側で笑う
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「じゃあお先に失礼しますね。」

「あれ、ヒツメちゃんもう上がりなの?」

腰に付けていた、注文を取るためのハンディを外していると同じバイトの善逸くんが声を掛けてくれた。飲食店でバイトを始めてからずっと私の教育をしてくれた善逸くん。学校は違うけど、同じ高校生だということもあってシフトは殆ど一緒で同じバイト仲間として一番仲が良い男の子。たまに汚い高音で叫んだり女の子には見境なく可愛いって言ったりするけれど、本当はすごく優しくて頼りがいのある人だ。

「ちょっと色々あって。」

「…そっかぁ、気をつけてね。最近ここら辺に不審者が出てるらしいからさ。」

善逸くんの言葉に心臓がどきりと跳ねる。平然を装って笑いながら大丈夫です!と返したけど、善逸くんの表情は曇ったままだった。
時刻はまだ20時。いつもは22時までのシフトだけど、その時間は少し帰り道が怖い。善逸くんも言っていた不審者が目撃された道を通らないといけないからだ。そして私はつい最近、不審者に会ってしまったのだ。何かされた訳でもなかったけど、こっちをじっと見てきたかと思えば後ろを着いて来られて本当に怖かった。だから店長に話して、今日はシフトを少し早めに上がらせてもらったのだ。

いつもより少し早い時間だから大丈夫だろう。そう思いながら早歩きで帰路を急いでいる時だった。外灯の下に、誰か立っている。俯いているようで、顔が分からない。
左右に道はなく、真っ直ぐにしか進めない。引き返す?いや、ここまで来たらもう走ってでも通り抜けよう。あの人が少しでも動いたら走る。そうしよう。思わず鞄を持つ手が汗ばむのを感じた。

「あの…。」

「っ、?!」

まるで鷲掴みにされたように心臓が跳ねた。まさか話かけられるなんて。私の足はまだ外灯にも辿りついていない。前から話かけられるなんて思っていなかった。恐怖で足が震えて動かない。

「ああ、やっぱり。君を探してたんだ。」

早く逃げなくちゃ。家に帰りたいけど前へは進めないから来た道を戻るしかない。足が縺れて走りづらい。だけどそんな事を言ってる場合じゃない。

「逃げないでくれ、俺は君と話をしたいだけなんだ!」

「っ痛…?!」

男が私の腕を掴む。怖くて振り払おうとすると、より強い力で引っ張られて男の方を向かされる。知らない男の人だ。だけどこの男の舐めるような視線は確かにあの時の不審者と同じものだった。

「離して下さい…っ!」

半ば暴れるようにして掴まれた腕を振り解こうとする。男は舌打ちをしたかと思うと、強く腕を引いた。私の身体は男の胸へと倒れるように飛び込んでいく。男は私をぎゅっと抱き止めたかと思うと、首元に頭を埋めてすぅ、と息を吸っていた。突然のことに恐怖で身体が動かない。

「や、…!」

声が出ない。男は匂いを嗅いでいるようで、首元で大きく息をしていた。ぞわり、と全身が粟立つ。

突然、男の体が引き剥がされたと思うと地面へと吹っ飛ばされるように転がった。何が起こったのか分からなくて、私は飛ばされた男を見つめていた。

「気持ち悪いからどっか行ってくんない?」

聞き慣れた声に安心して、腰が抜ける。へた、と座り込むと涙が溢れた。目の前の彼、善逸くんは私の前に立ち塞がる。聞いたことのない、低い声だった。

「誰だ、お前は。」

「聞こえなかったの?どっか行けって言ってるんだけど。」

私に背を向けているから善逸くんがどんな表情をしているのか私には分からない。男はゆっくり立ち上がると怯む様子もなく善逸くんに言った。

「君は彼氏じゃないんだろう。」

「少なくともお前よりはこの子と近しいよ。」

男は、ぐっ、と言葉を飲み込む。

「二度とこの子に近づくな。」

男は何も言わずに歩いていった。その姿が見えなくなると、善逸くんが私の方に向き直る。へたり込んでいた私に手を差し出してくれる。

「ごめん、ありがとう…」

「何か様子変だったから追いかけてきて良かった。」

身体を引っ張るようにして立たせてくれる。善逸くんは困ったような顔をしていて、ますます申し訳なくなってしまう。わざわざ追いかけてきてくれるなんて。

「抱きつかれただけ?他には何もされてない?」

「うん。」

思い出すと気持ち悪さに背筋がぞっとする。知らない人に抱きつかれて、匂いを嗅がれるなんて。

「この道通らないと帰れないの?」

「うん。遠回りする方の道はここよりも外灯が少ないから…。」

善逸くんが何か考えてから、口を開いた。

「じゃあ俺が送る。」

「…え、そんなの悪いよ!善逸くんの家って反対方向でしょ?」

「でもまた襲われたらどうすんの?」

それもそうなんだけど、毎回送ってもらうのは流石に申し訳ない。どうにかして断らなきゃ。さっきの男の人も善逸くんが強く注意してたし暫くは大丈夫だろう。

「自転車で通うよ。だから大丈夫!」

「…そっか。」

善逸くんが納得してくれて安心する。本当は、私の家には自転車がないのだけれど。駅にもバイトにも学校にも歩いて行ける距離だから今までに必要だと思ったことがなかった。
今日は家まで送ってくれるみたいだけど、彼氏じゃないのに毎回送ってもらうなんて申し訳ない。
ふと横目で善逸くんを見る。優しいし、仕事も出来るし、本当に頼りになる。
善逸くんが彼氏だったらいいのに。
…なんてことを考えてるんだ私!!

「どうしたの、顔を赤いよ。」

「…な、んでもない。」

冷静を装って答えた。彼の彼女になんてなれるわけがない。善逸くんは私以外の女の子には可愛いとか付き合いたいとかよく口にする。店に来たお客さんも、美人だったりすると率先して注文を取りに行くし、私をバックヤードに呼び出したかと思うと女の人と目があったとかそういう話だったりする。
要するに、私は女として見られていない。
もう一度言うけど、彼の彼女になんてなれるわけがないのだ。

「ありがとう、また明日!」

「うん、おやすみ。」

善逸くんはこっちには初めて来たのか、キョロキョロと辺りを見回していた。訳あって一人暮らしのハイツだけど、そんなに綺麗でもないから恥ずかしい。私が家に入るまで、善逸くんは手を振ってくれていて、その優しさに自転車で行くなんて嘘をついてしまったことを少し後悔した。



「で、自転車どこ停めてるの?」

どきっ、と心臓が跳ねる。返答に困る私に、聞いてる?と追い討ちをかける。

「近くのコンビニに…」

善逸くんは、昨日みたいに困った顔をして溜息を吐いた。何か言いたそうだったけど、お店が忙しくなってそれ以上話す事もなくシフトを終えてしまった。コンビニに自転車を停めてるなんて無理があったかもしれない。

今日も早く上がらせてもらった私は、帰路を走っていた。走って帰れば大丈夫だろうと思っていたけど、やっぱり怖い。なにも考えないようにして家まで走った。鞄からキーケースを取り出そうとした時、じゃり、という足音が聞こえた。

「今日は昨日の奴いないんだな。」

後ろから鼻で笑う声が聞こえる。まさか家にまで着いてくるなんて。キーケース持ったまま固まる私の手を、男が掴んで引っ張る。

「静かにしてくれ。」

「ぜん、い…!っんぅ…!」

叫ぼうとした口を手で塞がれる。その時、男の後ろに金色が見えた。

「昨日警告しただろ、近づくなって。」

低い声と共に、男が昨日よりも激しく地面へと転がった。目の前に立っているのは確かに善逸くんなのに、別人かのようだった。

「お前また邪魔して…!」

「俺この子の彼氏だからこういう事されるの本当に迷惑なんだよね。」

男が目を見開いて、善逸くんを見る。

「き、昨日は彼氏じゃないって…」

「俺はそんなこと一言も言ってないけど。」

男は口を噤むと何も言わずに去っていった。善逸くんが眉を顰めて私の方へ向き直る。謝ろうと口を開く前に、善逸くんが言った。

「…あのさぁ、俺は心配してるの。」

善逸くんの蜂蜜色の瞳が真っ直ぐに私を見つめる。いたたまれなくって目を逸らしてしまう。

「昨日の善逸くんが言ってくれたから今日は大丈夫だと思ったんだ、ごめん…。」

「どこからその自信湧いてくんの。」

何も言い返せない。確かに善逸くんの言う通りだ。

「ねぇ、助けたんだから、何か一つ言う事聞いてよ。」

怒ってはいないけど、何か含んでいるような言い方だった。昨日も今日も助けてもらったのだから、断る理由もない。二つ返事で頷くと彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。

「じゃあ、俺と付き合って。」

「うん。…って、ええぇ?!」

アニメや漫画のように分かりやすく驚いてしまった。突然何を言い出すのか。

「さっきの変な奴にも彼氏だって言っちゃったし。」

「そ、それは仕方ないことで…!第一、付き合うってことはお互いを好きじゃないとだめでしょ!」

どうして私が善逸くんの言い訳をしているんだ。いや、それよりも、こんな事を言い出すなんて思ってなかった。仮に冗談だとしても恥ずかしい。

「俺、ヒツメちゃんのこと好きだから問題ないじゃん。」

「か、仮にそうだとして、私が善逸くんを好きかなんて…っ!」

「好きじゃん。俺分かるし。」

「好き…?!」

頭の中がぐちゃぐちゃだ。私は善逸くんを好きなの?どうして私でも分からない事を善逸くんが口にするの?訳が分からない。

「耳がいいから分かるよ。ヒツメちゃんが自転車持ってないのも、嘘だってすぐ分かったもん。」

ね、と首を傾げる善逸くんが嘘を言っているようには見えない。でも耳がいいから分かるって、私には意味が分からないんだけど!

「いや、待って、いきなりそんな、」

「不審者に襲われて、俺の名前呼んでたくせにー。」

思い出して一気に顔が赤くなるのが分かる。これじゃあまるで私、本当に善逸くんのことが好きみたいじゃない…!

「顔赤くしちゃって、絶対俺のこと好きじゃん!」

なんだか凄く悔しい。いつものへらへらしている善逸くんのはずなのに、言葉だけがひどく意地悪だ。

「どこからその自信湧いてくるの。」

「それ俺がさっき言ったやつじゃん!!」

彼の言葉に思わず笑ってしまう。
彼と付き合うことで、こんな風に楽しく笑えるのなら、それも悪くないと思えた。


 

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