長編【蛍石は鈍く耀う】
□(2)まもりたいもの
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ヒツメからいつもと違う匂いがした。正確に言えば、シャンプーがいつもと違うと思う。指摘するとヒツメは不思議そうに笑った。善逸が
ヒツメの髪に触れる。顔を赤らめて、少し俯きながら必死に冷静になろうとしている。
俺は手を近づけただけで身を引かれたのに。
なんだか善逸とヒツメの距離が近い気がする。以前まではそんなこと無かった。なんだ、この苛立ちは。ヒツメは俺と、元に関係に戻りたかったんじゃなかったのか?
目の前でヒツメが笑う。
その笑顔が俺に向けられる事はないのか?
その日はずっとヒツメの事を考えていた。朝の二人のやりとりが頭から離れない。なにか、良い方法はないのか。ヒツメが善逸の告白を受け入れてしまったら。ヒツメが俺から離れることだけは許せない。
善逸と別れた後、苦しい、と演技をしてヒツメを家の中へと上がらせる。怖がらせて、縛りつけるのは間違いだと気づいた。だけど気づいたところで、どうすることが正しいのか分からなかった。
「ヒツメは、善逸と付き合うのか?」
ヒツメの気持ちを知りたかった。善逸との付き合いの可能性を否定しなかった。胸がざわついて、目眩がした。ヒツメが善逸に奪われてしまう。そもそも、どうして俺じゃ駄目なんだろう。俺なら、ずっとヒツメの側に居てやれるのに。
困惑するヒツメをベットへ押し倒す。起き上がろうとするヒツメの震える腕を掴んで押さえ込む。
「暴れるんじゃない。」
「っ…やめてよ!」
「煩い。」
煩い。もう何も言わないでくれ。聞きたくなくて、手でヒツメの口を塞ぐ。俺の側から離れないと言ってくれさえすれば良い。それだけでいいのに。
ヒツメは静かに涙を流しながら口をきゅっ、と噤んでいる。夕方の薄暗い部屋の中で、ヒツメの真っ白な肌が晒されている。押さえ込まなくても暴れることはなく、ただ事が終わるのを静かに待っているようだった。
携帯にヒツメの身体の写真が保存されていく。カメラ越しにヒツメの裸体を眺める。
このまま、抱いてしまおうか。そんなことを思ったのはほんの一瞬だけで、行動に移す気なんてさらさら無かった。
ヒツメが傷ついて悲しむところは見たくない。
矛盾していると自分でも思う。俺の眼下には確かに傷つき泣いているヒツメがいるというのに。俺は間違っていると分かっていながら、ヒツメを傷つけた。悲しむヒツメを見るといつだって俺も悲しくなった。ヒツメの悲しむと俺も同じように悲しくて、それがどうしてなのか、ずっと分からないままだった。
ふと、善逸のことを思い出す。ヒツメのことに必死で、その為なら友人である俺にさえ牙を剥いた。今の俺は善逸と何ら変わりない。
「好きって、どういう感情なんだろう。」
思っていた事がそのまま口から漏れる。俺と善逸、何がどう違うというのか。
「…相手を尊重したり、相手の為に何かしてあげたい気持ち、じゃないかな。」
思わず、ああ、とため息が漏れる。やっぱり俺の行動は、ヒツメの為じゃない。善逸にも言われた、自分の為だ。
「俺はヒツメを好き、じゃないんだろうな。」
自分の吐いた言葉に胸が締め付けられる。こんな気持ちになるのなら、ヒツメのことを好きだったら良かった。善逸のように堂々とヒツメが好きだから俺の彼女になってほしいと言ってしまえたらどれだけ楽だったんだろう。
そう考えてしまうこと自体、間違っているのに。
「いただきます。」
ヒツメが作ってくれた野菜炒めを口に運ぶ。最近はめっきり食欲がわかなくて、学校以外で何かを口にすることが無かった。何を食べても味がしなくて、虚しかった。
「残したらだめだからね。」
そう言って向かいに座るヒツメがふふ、と笑う。ほんの一瞬、ヒツメが禰豆子に見えた。
確かにその椅子に座るのは禰豆子だ。だからそう見えたんだろう。だけど目の前にいるのは紛れもなく禰豆子ではなく、いつものヒツメだった。
「ヒツメ、」
「うん?」
どうしてヒツメは普通で居られるんだろう。俺はヒツメに酷いことをしたと自覚している。さっきだって、包丁を突きつけられてもおかしく無かったのに。怯えるどころか、少し嬉しそうにも見える。
「味付け、気に入らなかった?」
言い淀む俺に、ヒツメは小首を傾げてそう聞いた。ヒツメが作るものはなんでも美味しい。
「そんな事はないぞ。」
本当に、ヒツメが作るものはいつだって美味しい。
数週間に作ってくれたカレー。ヒツメと一緒に食べた時、本当に美味しいと思った。
なのに、次の日は鍋に近づこうとも思えなかった。
ヒツメが居たから美味しく思えたんだ。
「誰かと食べると、美味しいな。」
ヒツメが作ったから美味しいんじゃなくて、ヒツメと一緒に食べたから美味しかったんだ。
ヒツメじゃなきゃ、駄目だ。
ヒツメが帰った後、俺はすぐにヒツメの裸の写真を全て削除した。映っていたヒツメの泣き顔が俺の心を抉る。こんな方法じゃ駄目だ。
俺のことを見捨てずになんとかしようと頑張るヒツメを見ていると心が痛む。その期待に応えたい。俺もそう望んでいるんだから。
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