桜の瞳




雪が舞っているようだと思った。
散らせているのが柔らかな風でなければ、雪と見紛う儚さだった。
ひらひらと舞い散る淡い色の花弁が、一陣の風に舞い上がる。
渦を巻くその中心に、あれが居た。
逆巻く風に艶やかな黒髪を掬われながら、少し上向けた翡翠の瞳に、
乱れ舞う花弁を映して凛と佇む―――。

…桜というのだと、愛おしげに言っていたのを思い出す。
そういえば、あれの部屋の前にも咲いていた…。


――月明かりの中で、目を開けた―――……。


* * * *


満開の桜の枝を僅かに揺らしただけで、黒い影が音も無く降り立つ。
妖気を閉じ、その気配を隠すと、彼は目の前の閉じられた窓に手を掛けた。

鍵は掛けられていない。
軽く力を込めると、窓はからからと音を立てて開いてゆく。
室内に流れ込んだ微かな風が、閉じられていたカーテンを揺らし、深夜の訪問者に道を開ける。
彼は何の躊躇いもなく部屋の中へと入り込み、壁際のベッドに近付いていった。

蔵馬はとっくに眠りに就いている。
侵入者によって開け放たれた窓から、朧月が柔らかくその姿を浮かび上がらせても、
規則正しい寝息を乱すことはなかった。
日頃は過剰なほど用心深い狐に似合わぬその様に、少しばかり呆れて眉をひそめながらも、
彼は暫しその無防備な寝顔に見惚れる。

艶やかな髪が少し流れて、いつもは隠れている滑らかな額を覗かせる。
そっと伏せられ緩やかな曲線を描長い睫毛が、白い頬に影を落とす。
透ける様な肌が青白い月光を浴びて、それでも生気を帯びて輝いて見えるのは、
薄く開かれ小さな寝息を立てる薄紅色の唇のせいだろうか…。

その唇に魅せられて、彼が手を伸ばしかけた時…。


「…ん……」

漸く侵入者の気配に気付いたのか、長い睫毛が微かに震えて、蔵馬が小さく声を漏らす。
その瞳が開かれる前に、彼は首に巻かれたマフラーを解き、目蓋の上からそっと押さえた。
突然のこの仕打ちに、眠っていた蔵馬の意識が急速に覚醒する。

「飛影…? どうし……ん…っ」

その唇が全ての言葉を紡ぎ出す前に、彼によって塞がれる。
口付けはそのまま深くなり、蔵馬は視界を閉ざされたまま、訳も解からず見えない彼にしがみついた。

「…う…んっ……ん…っ」

そんな状態でも何の疑いもなく身を任せ、求められるままに口付けに応えてくる。
愛しげに回された腕が、彼の頭を優しく抱え込み、細い指が硬い髪をそっと掴んで抱き締める。

その信頼を愛おしいと思う。
それと同時に、自分を映していなかった翠の瞳を思い出す…。

口付けを解かないまま、片腕を蔵馬の頭の後ろに回すと、上体を抱き上げるように少し浮かせて
蔵馬の頭に目隠しを巻きつけ、外れないようにしっかり結ぶ。
抗議の声は当然とばかりに聞き流す。
作業の成果を確認するため口付けを解いた彼は、顔を上げて、瞳を塞いだ蔵馬を眺めた。

目隠しで顔の半分ほどを覆われながらも、その顔立ちの美しさは少しも損なわれてはいない。
真っ先に人目を惹き付ける印象的な瞳がない分、繊細な顎のラインや形の良い鼻翼、
そして薄く色付いた花びらのような唇が際立ち、朧げに照らす月明かりの中でその美しさを誇る。
艶やかな髪が少し乱れてシーツの上に散らばる様は、彼でなくとも心をかき乱されるだろう…。

「飛影…?」

いつもは柔らかな笑みを湛えている唇が、今は少し緊張して、紡ぎ出す声にも不安が滲む。
それ以上言わせないうちに、その唇を再び奪う。

「ん…」

戒めを外させないように、両手首を捕らえてシーツに縫い付ける。
見えないことの不安からか、その手にも身体にも若干の強張りがある。
それには構わず、彼は口付けを深めてゆく…。

少しずつ、蔵馬の呼吸が荒くなり、唇を浮かせた僅かな隙に零れ出る吐息に熱を帯び始める。
身体の強張りは既に無く、気が付けば蔵馬の方から求めるように舌を絡めてくる。
それに応えながら、細い身体の奥深くに緩やかに熱を篭らせてゆくのを確認すると、
求められた舌を意地悪く離し、濡れた音を立てながら、角度を変えまた重ねる…何度も、何度も……。

視界の隅に、戒めた蔵馬の白く細い指先が、愛しい人を抱き締めたいと宙を彷徨うのが見えた。
その願いを叶えようと手首を解放しかけて…。

…瞳の所業を思い出し、心がざわめく…。
彼はふいと口付けを解いて、蔵馬から身体を離した。


「…飛…影……?」

唐突に放り出された蔵馬が、不安げに見えない彼に呼び掛ける。
口付けの名残りで濡れて艶めく唇が、甘く熱い吐息を忙しなく吐き出している。
その艶(なま)めかしさに、ぞくりとする。
目が離せなくなる…。

彼はついと手を伸ばすと、花びらのようなその唇に指で触れた。
いきなり触れられることは、瞳を塞いだ蔵馬に少なからず恐怖を与えることになるのは
解かっているが、その衝動を抑える気は彼にはなかった。
自ら与えた暗闇の中で、蔵馬が小さく息を呑み、びくりと竦むのに構わず、
指先で柔らかな唇をなぞってゆく…。

蔵馬が身体を強張らせたのは、ほんの一瞬だけだった。
目隠しの向こうの彼の意図を直ぐに汲み取ると、若干の戸惑いを見せながらも緊張を解き、
彷徨う彼の指先をその唇でそっと挟みこむ。

指先に、唇よりも熱く柔らかなものが触れ、その刺激に今度は彼がびくりと反応を返す。
少し指を引くと、誘い出された赤い舌が、ぴちゃりと濡れた音を立てて彼の指を追ってくる。
解放された蔵馬の指が、そっと彼の手を包み込み、時折優しく歯を立てながら、
柔らかな唇と舌と熱い吐息とで、愛しげに彼の指に愛撫を施してゆく。
花びらのような唇に、愛おしげな笑みを浮かべながら…。

彼は、暫しその扇情的な光景をじっと見詰めていた。
その優しい愛撫に心の半分を持っていかれながらも、妖気を抑えた訳も解からぬ相手に、
こうも容易く心を許す蔵馬が、何故か腹立たしく思えてならない…。
沸き上がる負の感情のままに、優しく触れる細い指を握り返し、蔵馬の手ごと、
彼はその唇から自分の指を取り上げた。

「…あ……っ」

取り上げられたことに抗議するように、蔵馬が小さな声を上げる。
それに構わず、今度はその手を、己の中心に触れさせた。


瞬間、びくりと蔵馬の指が竦む。
けれど直ぐに彼を認識し、その意味を理解する。

蔵馬は普段、愛しい彼を自分から愛する機会をあまり与えられていなかった。
術(すべ)は知っている。触れたいとも思う。
実際、何度か自分から仕掛けてみたこともあるが、その度にいつの間にか立場が逆転し、
後も先も判らなくなるほどに翻弄されることになるのだ。
彼に愛されることに不服がある訳では勿論ないが、そのことだけは、
蔵馬にとって小さな不満になっていた。自分だって、飛影を愛しているのに…と。

今日の飛影は何故かおかしい。
それは解かっているけれど…。
飛影の方から与えられたこの機会を、逃したくはなかった。

花びらのような唇が、恥ずかしそうに、けれど嬉しげに綻んで、
細い指を触れた彼へと柔らかく絡ませる…。
熱く脈打つ彼の分身は、優しい指の巧みな愛撫に昂められてゆく…。

「っあ…ぁ……」

心地好い愛撫に思わず身を委ねていた彼は、艶めいた声に我に返る。
薔薇色の唇は先ほどより更に艶を増し、小さく震えながら忙しなく熱い吐息を洩らしてる。
零れ出そうになる甘い声を抑えるためか、時折り下唇を噛み締める様は、
まるで蔵馬自身が彼に愛撫されているかのようで…。

手を伸ばしてその唇に触れると、白い喉をのけぞらせて艶やかな声を上げた。


とくり、と身の内の熱がざわめく…。
昂められたその中心に、痛いほどにわだかまってゆく…。


彼は蔵馬の腰を抱え上げ、パジャマのズボンを下着ごと剥ぎ取ると、
触れられてもいないうちから勃ち上がった蔵馬を確認して、唇の端に笑みを浮かべる。
喘ぎにも似た抗議の声を上げる艶やかな唇を片手で押さえつけ、形の良い脚を高く抱え上げると、
まだ慣らしてもいないそこへと猛る自身を押し当て、一気に貫いた。

「―――――――――っっ!!」

掌の下で蔵馬が叫ぶ。
細い身体が衝撃に震え、縋るもののない白い指先が、きつくシーツを握り締める…。

きつい締め付けに耐えながら、蔵馬の身体が慣れるのを動かずに待ってやる。
彼の身体の下で浅く荒い呼吸を繰り返している蔵馬が、震える指をシーツから懸命に引き剥がし、
その唇を塞いでいる彼の腕へと縋りつく。
細い指は未だ不規則な痙攣を繰り返し、その身の辛さを物語る。
縋る指は少しずつ上へ…その先にいる愛しい人へと伸ばされる…。

そして……。
塞がれた唇が、苦しげに声にならない声を出す。ひえい、と…。


今日だけは…最後まで、声を掛けないつもりでいたのに。
…もう、呼ばずにはいられない――…。


「…蔵馬……。」

掌を外した途端、よほど苦しかったのか、蔵馬は大きく息を吸い酸素を取り込んだ。
その唇の邪魔をしないようにと、そっと柔らかな頬を撫でる。
飛影の腕に縋っていた細い指が嬉しげにその手に重ねられ、忙しなく息をする唇が、
震えながら優しく綻んだ。

「…飛…影……。」
「蔵馬…。」

痛みに震え、未だ強張りを解けないままの愛しい身体を抱き締めると、蔵馬が甘く声を洩らす。
その声ごと絡め取るかのように、艶めく唇に唇を重ねる。
息継ぎが困難にならないようにと心に留めつつ、それでも充分にその甘さを堪能してから、
唇から首筋、その先へと、自らの唇をゆっくり移動させてゆく…。

「ひぇ…い…ひ…えい……。」
「…蔵…馬……。」

うわごとのように繰り返し飛影の名を呼びながら、蔵馬の身体は強張りを解いてゆき、
その身の内に熱を篭らせる。
それに引き摺られるように、蔵馬の中の飛影自身も再びとくりと疼きだす。
震える腕が縋るように首に回され、細い指が髪を掴んで優しく引っ張るのを確認すると、
胸元を漂わせていた唇を離して蔵馬の顔を覗き込む。

熱く甘い吐息を洩らし、麻薬のような「呪」を紡ぎ続ける艶やかな唇に魅入られる…。
そっと啄ばむように重ねると、唇が触れ合う距離で、囁くように蔵馬に告げる。

「動くぞ…。」

返事を待たずに腰を引く。

「っ…ああぁ……っ!!」

蔵馬がびくりと身体を反らせ、飛影の目の前に白く細い喉を曝す。
花びらのような唇から、甘く艶やかな喘ぎが洩れる…。


その声とその吐息に煽られて、目眩を覚えながら、飛影はまるで初めて蔵馬を抱いた時のように、
夢中で蔵馬を追い詰めた―――…。


* * * *


余韻に艶めき、紅に色付いた唇が、忙しなく熱く甘い息を吐く。
その端には薄く笑みが刻まれて、愛された喜びに満ちている。

飛影はまだ蔵馬の上に乗ったまま、上体だけを起こしてその様子を眺めていた。
何故この小さな器官が、あれほど甘く、自分を惹き付けるものなのか…。
見詰めるほどに、愛しさが込み上げてくる。

そして、同時に強く思う。瞳が欲しい、と…。
あの、他に喩えようの無い不思議な色に煌めく宝石も、きっと自分を求めているはずだ…。


行為の間に少し緩んだ目隠しに手を掛けると、そのままゆっくり滑らかな額の上に押し上げる。
そっと…驚かせたりしないように。


戒めを解かれ、漸く開放された瞳が、ゆっくりと開かれる…。

零した涙の殆んどを外した布に持って行かれても、まだ少し長い睫毛を濡れさせて、
翡翠の瞳が飛影を映して優しく揺れる。
そっと伸ばされた白い指先が飛影の頬に触れ、幸福そうな笑みを浮かべた唇が、
漸く逢えた愛しい人の名を紡ぐ。

「飛影……。」

揺れて煌めく翡翠の瞳をじっと見詰めながら、飛影はゆっくり顔を近づける。
そして、幸福の予感に微笑みながら閉じた蔵馬の目蓋の上に、そっと唇を落とした。


* * * *


優しい口付けを交わしたあと、飛影は蔵馬の鎖骨の辺りに顔を埋めて、大きく一つ息を吐いた。
くすぐったさに耐えながら、蔵馬はそっと、飛影の頭に腕を回して抱き締める。

「…よく判ったな。」

妖気を抑え、触れ方も変えていたのに、と。
笑いながら蔵馬が答える。

「本気で言ってます? どうして判らないなんて思うのか、解からないんですけど?」
「…フン。部屋に入り込まれても目も覚まさないとはな。危機感が無さ過ぎるぞ、おまえは。」
「これでもそれなりに敷居は高いんですよ、ここは。平気で渡って来られるのなんて、
貴方くらいなものです、飛影…。
もっとも、その貴方が強姦魔じゃ、何か対策を考えないといけないけどね?」

実際のところ、「それなり」どころかとんでもない難所であることは、飛影にもよく判っている。

「…フン。」

つむじ曲がりの恋人の髪を、細い指が優しく撫でる。

「何か…あったの?」
「別に…何もない。」
「…飛影?」

蔵馬は飛影が自分の身体の中でも、特に瞳を気に入っていることを知っていた。
何かにつけて覗き込み、時には行為の最中にさえ、瞳を求められることもある。
蔵馬にとって、それは嬉しくも辛い要求であるとともに、飛影に深愛されていることを感じられる、
特別な瞬間でもあるのだった。

その瞳を塞いだのだ、彼は…。
何もない筈がない。
蔵馬には全く心当たりが無く、蔵馬の知らない何かが、飛影を駆り立てたに違いなかった。
それを探り出さなくては…。
彼の翳りは、可能な限り取り除いてやりたかった。


「何でもいいから…話してください。貴方の声を聞いていたいから…。」

蔵馬の指が、飛影の髪をそっと掴んで優しく頭を抱き締める。
空いた指は、飛影の背中の筋肉を辿るように優しく撫ぜる。
彼のどんな小さな反応も見逃さないように…。

「ね、飛影…?」

甘やかな声で、促すようにそっと囁きかける。

「…夢を、見ただけだ…。」
「夢…?」
「桜吹雪の中に、おまえが立っていた。おまえは桜しか見ていなかった。別に…それだけだ。」

蔵馬の指の下で、しなやかな筋肉がぴくりと動いて飛影が顔を上げる。
飛影の言葉の少なさに、状況を把握出来かねていた蔵馬は、少し戸惑った瞳を彼に向けた。
飛影は蔵馬の頬…というより、瞳に直接触れたげに手を伸ばすと、じっと覗き込んできた。


…ああ、と蔵馬は納得する。

――おまえは桜しか見ていなかった――

…俺の瞳の中に、貴方が居なかった?
そんなこと…有り得ないのにね……。


蔵馬は柔らかく微笑み、飛影を見詰め返した。
ほんの少しだけ、瞳に狐の《魅了》の力を込めて…。

「それで目隠しを? 俺は貴方の見た夢への八つ当たりで、貴方にいぢめられたの?」

可笑しそうに笑う蔵馬の唇に、黙れと言わんばかりに飛影が口付ける。
塞いだ唇は甘く柔らかで…。


…気が付けば、息すら絡め取るほどに、深く深く重ねていた―――…。



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