一次小説

□御霊の欠片
2ページ/3ページ



 まだ夜も明けようとはしていなかった。冷たい夜風が肌を刺す。
 とぷりとぷりと、水面が風に揺らいで、酷く寂しげな音を出している。



 ぎりと絞め付けるかの様な、凍えた水が体を抱く。
 揃えた草鞋はもう遠い。私は岸辺を何度も振り返っていた。
 それは未練などではないと思いつつも、来てくれるのではないかと願う矛盾。
 もう何度、この水面に小さな波紋が広がった事か。
俯けば、月明かりが私の顔を映そうとする。
隣にあの人の居ない、私の顔−−。
 それは見たくない、嫌だ。見たくない……水面を掻き乱す。
 袖で水を掻き、袖で水をばしゃりと掻き乱し。
 跳ねた飛沫が頬を流れ落ちた。


 今頃は褥を共にして、温もりを分かち合っているだろうか。
 今度その手が私へと伸びる時は、邪魔な私を虐げる時だろうか。
 それならば、まだ温かな思い出だけを抱いて逝きたい。


 私は意地悪で我儘な女だ。そう言ってある。
 “あれ”が一時の迷いだったと言い訳をしても、許してはやれないのだろう。
 私達の最後の朝。あの人が「行って来る」と言い、私が手を振って見送りした事を忘れてはいない。
 それは戻って来ると言う言葉。


 今一度、岸辺に振り返った。
 遠くには、私の名前を半ば絶叫するかの様に呼び、此方へと向かって来る影。
 その余りに真剣な姿に向かって、私は笑ってやる。
 何を今更。もう私の元に戻ろうとしても遅いと、笑ってやるのだ。


 ――目が熱くなるばかりで、上手く笑う事は出来なかった。
 高鳴った胸の鼓動が、不意に絶える。
 ふと軽くなる様な、奇妙な倦怠感が足の爪先まで広がった。
しかし、全てが停まった筈だが、胸の奥がじわりと暖かくなる。

「ふふ、お帰りなさい。今日は少し、遅かったなあ」

 あの人が、まだ私を求めてくれていたのだと気付く事が。


 瞼が重い。この光一粒も見えない暗闇は、もう何も伝える事が出来ないという証だろう。
 だから気付いて欲しい。
 この見送りを受けて、私は「行って来ます」。


次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ