BOOK3

□玉箒
1ページ/2ページ


畏を代紋に掲げる奴良組の、庭に臨む二階の座敷。

障子は開け放たれている。

窓枠で縁取られた闇の隅に、半月を過ぎた月が浮かんでいる

それはまるで、一枚の墨絵の如し。

ぬらりひょんは盃を口に運び、くいと傾けた。

嫌味のない清らかな味が喉を通る。

思わずほぅ、と息を吐いた。

――良い酒じゃ。

「妖様」

鈴の転がるような美しい声が耳に届いた。

傍らの妻が、徳利を手に微笑んでいる。

彼も笑みを返して、朱塗りの盃を持ち上げた。

妻は絶妙な位置から透明な液体を注ぎ、盃を満たす。

ぬらりひょんは再び上等な味を堪能した。

「のぅ、珱姫」

「はい」

妻――珱姫の声は心地好く、彼の鼓膜を甘く震わせる。

「知っとるか?酒はの、別名玉箒とも呼ぶんじゃ」

「たま…なんでしょうか?」

珱姫は麗しく首を斜めにした。

「玉箒(たまばはき)。要するに箒じゃよ」

「箒って、お掃除の際に使う箒ですか?」

「さよう。飲めば、箒で掃き清めたかのように憂いを払ってくれる。ゆえに、玉箒と言うのじゃ」

たまばはき、と。

珱姫は口許に細い指を添え、花びらのような唇を動かして、文字を確かめるように言葉をなぞった。

「美しい呼び名があるのですね」

珱姫は目を細め、口許を緩ませた。

彼女は美しい。

されどその美しさは、艶やかというよりむしろ、可憐である。

「あぁ…。じゃが、憂いを払ってくれるものは、何も玉箒だけではない」

ぬらりひょんは盃を畳に置いた。

「え?」

彼は妻の手を取り、指を絡める。

ぐっとにじり寄り、珱姫のかんばせを下から覗き込んだ。

「あ…妖様?」

珱姫の頬にさっと朱が走る。

「玉箒が憂いを払うと言うならば、珱姫。あんたが最高の玉箒じゃよ」

ぬらりひょんは更に首を伸ばした。

二人の距離は、もう僅かもない。

「なぜなら、ワシはあんたに酔い、あんたが傍にいるだけで、憂いなんざたちどころに消えてしまうからのぅ」

「妖様…」

珱姫はそっと目を伏せる。

軽く閉じられた花びらの合わせに、ぬらりひょんは口づけた。

可憐な桜色の玉(ぎょく)こそ、彼には至極の玉箒――。



《後書き→》
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ