位相転移

□Kein Name〜名前なんて、ない。
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葬儀屋とこんな時間を過ごすようになったのは、いつからだったか。

最初はひどいものだったと、グレルはたまに思い出す。

あんなふうに奪われる日が来ようとは、自分が生きてきた世界では思いも及ばないことだった。

死神図書館の小部屋だった。図書館で出会うのは、たまにあることで。その日は、たまたま2人だけで。

他愛のない話をしていた。相手が、かつて凄腕で鳴らした伝説と謳われる存在だと聞きかじった知識はあったものの、引退した今は不気味なだけの男だとタカをくくって、へりくだることもなく接していた。

そう。タカをくくっていた。

不意に脇の小部屋に連れ込まれて、冷たい石造りの机の上に倒された。強引だった。

けれど、処女めいた戸惑いや怯えを見せるのは嫌だった。それはプライドだったのか、虚栄心だったのか。

好奇心は、あった。何と言っても、初めて前髪に隠れた素顔を見た時には我を忘れて抱き着いたほどのテライケメンだ。

自分が普通に生きていても、そんな男に抱かれることなど起こりえないと思うと、逃してはならないチャンスかもしれないと……そこまで考え至る余裕はなかったけれど。

とにかく何もかもが唐突で、いきなりすぎた。ノリノリで受け入れられるはずもなく、多かれ少なかれ頑なになってしまうのは当然だった。

そんなグレルに、葬儀屋は言った。

「最初にモーションかけてきたのは、きみの方だろぉ」

「ちょっと……! あれは、あくまであの場のテンションって言うか、そッ、そもそも、あれ以来なぁんにもしてないのに、いきなりこんなのって……」

2人で時間を過ごして、少しは「そういう」雰囲気とか距離が縮まったのとかを確かめ合って、合意の上でコトを進めるものなのではないのか。自称「乙女」としては、譲れない手順だ。

しどろもどろなグレルに、葬儀屋は言い放った。

「誰かに訴えたいなら、どうぞぉ」

欲望でも熱情でもなく、ゾッと凍り付くように感じた。それが、逆にグレルの奥に火を点けた。

力なんて入っていなかったのに、そのまま抵抗らしい抵抗をすることができなくなった。

生気とか活力とかを奪う能力でもあるのだろうか。伝説の死神の特別な技能なのだろうか。

「……アナタの美貌を間近で見ながら、抱かれるの?」

「ヒヒッ……」

サラリと横に流された前髪の下から顕われた黄緑色の瞳に、頭の中まで、内臓の奥まで見通された気がして、目を閉じた。まるで口づけを待つように。

すかさず重ねられた唇は、冷たかった。

強気でいられたのは、そこまでで。葬儀屋の一挙手一投足にドキドキして、オドオドして、ビクビクして、ありえないような声を上げるはめになった。


死神寮の部屋に戻ってからしばらく放心して、ひとしきり泣いた。恋人でもない男に体中を触りまくられて、体の奥まで暴かれた記憶は、克明に記録されていた。

翌日になると、その感情は、自分はあの男とベッドを共にする間柄になったのだというものに変化した。

やはり、どこかで「嫌ではなかった」という気持ちがあったのだろう。本気で嫌悪を感じたら、「伝説」相手でもメチャクチャに暴れてやることくらい出来たはずなのだから。

上層部への告発も、しなかった。どうせ握りつぶされるに決まっている、と思ったのは確かだが、最終的にはグレル自身が選択したことだ。

(アタシ、この次アイツに会ったら、どんな顔すればいいのかしら……)

葬儀屋が自分の恋人になったのだろうか。テライケメンの伝説の死神が。……ウィリアムたち職場の死神は、何と言うだろうか。

そういう間柄になったのだから、向こうから連絡を寄越したり、会いに来たりするのだろうか。デートに誘われたら、何を着て行けばいいのだろうか。会話の内容は? 呼び方は? スキンシップは? これからも会うたびに抱かれるのだろうか?

グレルの頭の中は、ひっきりなく饒舌な会議を繰り広げた。


そんな多くの検案事項は、あっけなく片付いた。


いくらも経たないある日、とある式典に出席させられた。何とか言う聖人の魂を天界から分捕れた故事を記念してのものらしいが、興味がないので詳しくは知らない。

狭苦しく並んだパイプ椅子で群衆と化したグレルの目が捉えたのは、貴賓席のソファに座る葬儀屋の姿だった。いつもの神父服では浮き上がると思ったのか、借り物みたいなスーツを仮初に着ています、といった様相で、ちょっと笑えた。

だからグレルは、群衆の中から思わず立ち上がって手を振った。澄んだ声は、どれだけ人がいようともよく響く。

「ハァイ。今日は図書館じゃなくて、こんなところにお出ましなのネ、珍しいじゃない」

「…………」

葬儀屋は一瞥だけして、そのまま返事もせず、何事もなかったかのように隣のお偉いさんと言葉を交わした。

(ああ、そういうことネ……)

冷たすぎる態度が、なぜかストンとグレルの腑に落ちた。

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