位相転移
□Die letzte Blume〜最後の花
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「そう。それから靴も、ダンスフロアみたいなツルツルの床を歩くばかりじゃないんだから、しっかりしたヒールでないと。石ころをふんづけても平気なくらいのね。ブレスレットや指輪は、手の動きを邪魔しないように極力おさえて」
2人が密かに計画して、共謀して、実行している、夜会の後の「狂宴」。ちまたでは「切り裂きジャック」などと称されている凶悪な殺人事件。
社交会で人気者の才色兼備な男爵夫人と、付き従う冴えない執事。この2人を疑う者など、どこにいよう。ゆえに、医者としての明晰な頭脳と人ならざる死神の能力とが結託して、向かうところ敵なしの状態だ。
まもなく次の夜会が開かれる。職場の病院でも屋敷の使用人たちにも怪しまれることなく、夜間に出かけるには好都合だ。アリバイ作りはグレルの能力を持ってすればたやすいが、それがいかにも自然な行動だと思われるように仕向ける算段だ。
「さて。ドレスと靴は、これでよし。後はアクセサリーね」
「ドレスだけじゃダメなの?」
「貴族たるもの、宝石の一つも身につけていなきゃ、示しが付かないわ。もちろん化粧も、バッグも、馬車も。ああ、場合によっては給仕にチップやご祝儀を渡すこともあるから、多少のコインは用意しておかないと」
「ちょ、ちょっと待って。覚えきれないわヨ」
「それが、あんたの仕事でしょ」
上流階級の紳士淑女が、こぞっておしゃれをして集まって来る場なのだ。一分の隙もない身だしなみが求められる。細身のドレスを着こなすためのダイエットや、化粧乗りを良くするための肌の手入れまで、するべきことは数えきれない。庶民のような労働をしないとは言え、貴族だってけっこう忙しいのだ。
もちろん、グレルにも整えておくべき手はずはある。死亡予定者リストと、アンジェリーナが決めたターゲットのシネマティック・レコードの照合、死神界での帳尻合わせのための小細工、時間調整のためにシフトを変わってもらうための、同僚の死神への脅しなどなど。
「そうそう、あんたの衣装も作っておかないとね」
「アタシの? ドレスを?」
勘違いして、ぱっと瞳を輝かせる。メガネの向こうに見える黄緑色の瞳は、なぜか目を奪われる。
「執事はドレスなんて着ないの。タキシードをあつらえてあげる。赤はさすがに浮き上がるけど、渋いボルドーくらいなら許容範囲だから、それ着てお供しなさい」
「つまんなぁい」
ちょっと膨れる顔つきは子どものようだ。前にそう言ったら、アタシはアンタの何倍も長く生きてるのヨ、と言い返された。不思議な存在だ。不可解だが、不快とは程遠い。
「奥様、病院からお迎えが参っております」
ドアがノックされて、メイドが告げる。ドアを開ける前に用件を伝えるようにという女主人の言いつけを守っているのだ。すべてを、秘密裏に行うための用心だ。
医者としてのアンジェリーナは、患者からの評判も上々で、多くの人を救ってきたという表の顔を持っている。皮肉なものだ。
「それじゃ、後はあんたに任せるわ」
「えーーそんなぁーー! アタシ一人で……」
「昼間、ヒマにしてるんでしょ。私には病院の仕事があるのよ。まして、あんたは」
チラリと目配せをする。それだけで、アンジェリーナの意図を読んだグレルは、さっと立ち上がって、それからひざまずく。流れるようになめらかな身のこなしは、舞台に立たせたら映えるだろう。
「これでも奥様の執事でございますDEATH★」
語尾の不穏さと、不敵な上目遣い。これさえなければ、品格ある執事の演技はパーフェクトなのに。でも、今は他人の目がないから、かまわない。
「わかってるじゃないの。だから、準備を進めておいてちょうだい。実際に手を下すのは私。あんたには出来ないでしょ、『アレ』だけを切り取るなんて。だから分担よ、いいわね?」
「かしこまりました、奥様」
堂に入った大仰な所作で、グレルは応えた。
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