位相転移
□不思議の森A〜はじまり
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このお話は、OVA設定の
帽子屋×チェシャ猫です。
今回は出会いのなれそめ話なのでR度数が低めですが、念のため閲覧にはご注意とお覚悟をお願いいたします。
庭の木の上に、何かいる。
帽子屋は、本能的に感じ取りました。今は平和っぽい人間みたいに生活していますが、現役当時は何やかんやあったらしい彼は、今でも不思議の森で一目置かれる存在です。
さすがに引退して年月が過ぎた今は、おおっぴらにすることは、なくなりました。だから、いたって平和な日々、なんにもない日の記念ティーパーティーを、日がな一日やっているのが常です。
それでも、たまにこうして一人になると、神経を研ぎ澄まして他者の気配を探ってしまいます。無意識にしてしまうのですから、帽子屋自身もどうしようもありません。
その「何か」は、毒々しく毛羽立った殺気をみなぎらせて獲物を探している猛獣のような気配を発しています。
「どれどれ……姿を見てみようかね」
武器も持たずにのこのこ出て行く帽子屋の「気」は、いつもと変わらぬバニラのくゆりを漂わせています。およそ猛獣と立ち向かうとは思えない風情で、すぐに庭先の木の枝に座る「ソレ」を見つけます。
シャーッと威嚇してくるソレは、全身の毛を逆立てる獰猛な様相です。
普通の人間なら、恐ろしくて逃げてしまうでしょう。でも帽子屋は、好奇心のままマジマジと観察します。真っ赤な髪を長く伸ばしたソレは、帽子屋のような人間と変わらない姿に見えます。違っているのは、耳と尻尾。頭の骨格を見る限りでは、人語をあやつることもできそうですが、口から出るのは唸り声ばかりです。
視力に頼ることをやめた帽子屋の目は、ズームして観察を続けます。
白いシャツの肩口がほころびて、顔には擦り傷と泥がこびりついています。
おそらく、敵と戦ったのでしょう。そんなにボロボロになっていても、ソレは鋭い眼光をまっすぐ向けて、威嚇を続けます。
ズレたメガネから覗く瞳はパッチリとつぶらな形に見開かれています。そのペリドット色は見慣れたものですが、でも初めて見る輝きをまとっていました。
「……ほぉ〜〜……」
帽子屋は、興味深げに声を漏らします。
この獣は、話しかけたら答えてくれるのだろうか。おしゃべりできたら、楽しいかもしれない。
そんなふうに思ったのは、この時はまだ思いつきにすぎませんでした。
相手は野生の獣です。うかつに近寄るわけにはいきません。
夜でも太陽の光をもたらしてくれるペリドットの色は、黄泉の世界の空の色のようでもあります。
この獣の牙に切り裂かれて黄泉まで堕ちて行くのも、悪くないかもしれない。
そんなイメージが頭に浮かんだ、その時。
くぅーー……
獣の、しなやかで細い体の中で音が鳴りました。
黄泉の住人ではなく、生きているからこそです。
張り詰めた空気が変わった拍子に、帽子屋の口から出たのは。
「クッキー、食べるかい?」
「にゃッ?!」
何とも気の抜けた言葉に、獣は驚いたようです。帽子屋も、しまった、と思いました。野生動物が人の手から食べることなどないはずなのです。なのに。
次の瞬間、ピュッと木から降りて来た獣は、帽子屋が指でつまんでいるクッキーに噛り付いてきました。
ひと噛みひと噛みの振動が帽子屋の指先に伝わってくるのは、まさしく命あるものらしい刺激です。
「ヒッヒッヒ……だぁれも横取りしないから、ゆっくり、よく噛んでお食べ」
帽子屋が嬉しげに言うと、獣は気まずそうにしましたが、食欲には勝てません。おそらく無意識に、クッキーの甘い香りに誘われてしまったのでしょう。
獣は、カリカリとクッキーを齧り続けます。それは、帽子屋がポケットに入れていた分を食べ尽くすまで続いたのでした。
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