位相転移

□不思議の森A〜はじまり
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人心地――人間ではないので、おかしな言い方です――ついた獣が、長い舌で口の周りをナメナメしだしたので、帽子屋はお茶に誘うことにしました。

「お茶って、人間がよく飲んでるヤツ?」

「そうさぁあ。きみは人間と変わらない姿かたちをしているんだから、お茶を飲んだって不思議はないよねぇ」

思った通り、この獣はおしゃべりできるようです。

嬉しくなった帽子屋は、いつも吊り上がっている口角をいっそう上げて、お茶の淹れ方を話します。井戸水を汲んで、ヤカンで沸かして、ポットに茶葉を入れて。とにかく手順がとても複雑なので、庭先ではできないのだと説明したところ、素直に家に入ってくれました。帽子屋の言葉が巧みだったおかげです。

「アンタ、一人暮らしなの? ホイホイ男の部屋に上がり込むのって、軽々しいんだけど」

そんなふうにレディを気どっていますが、実際には家を持たない野生動物です。誘われるままに応じるのは、負けたみたいな気がしてしまいます。

「ヒッヒ……小生は、見ての通り武器一つ持たない人間だよ。心配することなんて、ないさ」

「……それもそうネ」

やっぱり帽子屋は、言葉が巧みです。


チェシャ猫と名乗った獣は、おしゃべりを始めると結構しゃべります。帽子屋が想像したよりも、ずっと澄んだ声だったので、聞いても聞いても嫌になりません。

「見たところ、きみはまだ仔猫ちゃんだろぉ」

そんなふうに水を向けてみたところ。

「ナメるんじゃないわヨ。アタシはピーッ(個人情報規制)年も生きてる、森の案内係なんだから」

チェシャ猫は、身の上話を始めました。

ときどき王宮で女王の衛兵として働くこともあるといいます。

女王は残忍な性格で聞こえた暴君なので、獣よりよほど恐ろしい存在です。結局このチェシャ猫は、道案内歴は長くない上に、そもそも正当な道案内の仕事をする気もなく、不思議の森の中で自由気ままに生きているようです。

それから、野生の生き物のルールとか、珍しい動物や植物の種類とかについて、たくさん聞かせてくれました。

獣同士が出くわすと、テリトリーをかけたバトルに発展することもあるといいます。

「今日もちょっとヤっちゃってネ。不細工なヤツだったから、ギッタギタにしてやったワ」

口元をゆがめるチェシャ猫のくるくる変わる表情が、帽子屋の目を楽しませます。

「確かに、きみは可愛いからねぇ〜」

もうその頃には、帽子屋の口元は締まりなく緩みきっていました。前髪で隠れている目じりも、きっと下がりきっているでしょう。

「ナニよ?」

美形好みのチェシャ猫の興味を引くものでは、ないはずなのですが。

「キレイとか、美しいとか、他に言いようないワケ?」

「お待たせ〜。お茶が入ったよ」

ようやくサーヴされたお茶は、花の香りがしました。とっておきのお昼寝場所であるお花畑に、一年に一度しか咲かない深紅の花と同じ香りです。

「いただきまーす」

すっかり無防備にカップに口を付けた後、はっとします。野生の獣たるもの、もっと警戒心のかたまりでいなくてはいけないのです。それに、人間のお茶は、猫にとって別の危険もはらんでいます。ところが。

「……熱く、ない……」

「猫舌仕様にしたつもりだけど、口に合ったかい?」

「……おいしい。飲みやすいワ」

文句を言ってやるネタがありません。戦いもしていないのに、負けた気がします。

「ヒヒヒ……気に入ってもらえて良かったよ」

チェシャ猫は、戦いをアイデンティティとする獣なのです。相手がこんなふうでは、それを発揮できません。

甲斐甲斐しい。マメ。世話好き。気が利く。

どれも、チェシャ猫の小さな脳みそにはない言葉です。それでも何となく、喉の奥と背中の上の方とがムズッとしたので、チェシャ猫は思い付きを口にしてみました。

「アタシ、これでもにゃんこデス★ モフモフの誘惑に弱い種類の人間がいることくらい知ってるワ」

これなら勝ち目がありそうだと、流し目を送って舌なめずりをします。見よう見まねの誘惑ポーズです。常識ある人間なら、こんなものに乗るわけがないのですが。

「モフっていいのかい?!」

目の前の男は、身を乗り出して食いついてきます。

「……イイわヨ」

帽子屋は「ヒーッヒッヒ……」と悪魔のごとき不気味な笑いを立てるので、思わず息をのみます。

でも、その指は優しくて。壊れ物を扱うみたいに繊細な動きをするものですから、すっかり気に入ってしまいました。

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