「江戸を斬る」

□黎明篇
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その日の立ち合いの順番は、おゆきまでは回って来なかった。意図的に、そうしているのかもしれない。そのかわりと言おうか、皆が帰ったあと、道場主に呼ばれて、じきじきに稽古をつけてもらうことがたまにあった。が、今日はさる大名屋敷に出向く用があると言って、出かけて行った。

兄弟子の監督のもと、めいめい素振りをして、稽古はお開きになった。

男の子たちが着物をはだけて汗を拭う中、おゆき一人は手ぬぐいで額や首筋を押さえるだけだ。

良家のお坊ちゃまは、迎えの者に荷物を持たせて、肩で風切り帰途に就く。おゆきは、物陰で手早く着替えて、町娘の姿で一人気楽に帰る。




「あら?」

道端で、数人の少年が騒いでいる。どうやら、一人の年少の子に四人がかりで因縁をつけているらしい。

「やめなさい! 弱い者いじめなんて、卑怯です」

幼いながら凛とした声でたしなめる。いかにも理にかなった言い分は、しかし、火に油を注ぐことになってしまう。

「お前、道場に来ている女だな。女のくせに、それも町人の分際で剣術なんて、もっと生意気じゃないか」

どうやら、矛先はこちらに向き変わったようだ。
一人が拳を振り上げる。おゆきは、ひらりと交わす。

「わたしが相手をします! あなたは今のうちにお帰り下さい」

かばわれた少年は、震える足腰で、かろうじて逃げて行った。


持ち前の正義感から飛び出しはしたものの、おゆきとて勝算があったわけではない。竹刀も持たない丸腰だし、そもそも多勢に無勢だ。自分が怪我をするだけなのなら、世の中の無理が通って道理が引っ込むことになってしまう。

(……やっぱり、無謀だったかもしれないわ)

降りかかってくる拳や蹴りを何度かは交わしたものの、このままでは埒が明かないし、逃れようもない。

だんだん旗印が悪くなってきたとき、思いもよらないことが起こった。


「おっと、危ないからどいてな」

一人の少年が、ひらりと滑り込んできた。見覚えがない顔だ。

「俺に任せとけ」

荒削りだが、スキのない動きで、四人を相手に一歩も引かない。それどころか。

「どりゃあっ」と気合を入れたかと思うと、一人目を投げ飛ばす。

(柔術……? この前おっかさんにお手本を見せてもらったのと、同じ動き……)

スッキリした立ち姿は、他の男の子よりも高くて、威圧感を与える。

「こんなの、まぐれだ……うぐっ!」

勢い込んで飛び掛ってきた二人目は、ちょんと足を引っ掛けて転ばせてしまう。

「ほらほら、どうした」

残る二人には、既に渡り合う気概など残っていなかった。おゆきが呆気に取られている間に、勝負はあっさり決してしまう。


「お、お前、どこの者だ! 父上に言い付けてやるぞ!」

そんな他力本願が、彼らにとっては精一杯なのだろう。

「言ってみるといい。小さな女の子に男が四人で勝負を挑んだら、部外者の男一人にこてんぱんに伸されました、ってな」

「この……この……っ」

それ以上何も言えなくなって、四人が尻尾を巻いて逃げて行く。
下町にいるやくざのような言い分だと、おゆきは可笑しくなった。そのくせ、嫌味がない。
それは一転して、悔しさや敗北感めいた気持ちになる。

(……わたしが、一人でやっつけてやりたかったのに)


彼が軽く手のひらを払いながら振り返ると、まじまじと見つめるおゆきと目が合う。

「おい、怪我はないか?」

「ありません。あなたは?」

「見ての通りだ。女のくせに、おてんばなんだな。俺が通りかかったから良かった」

悔しい。自分ひとりの力では、何も出来なかった――――

あまりにも屈託なく笑いかけられて、またそんな気持ちが大きくなる。


「お前、家はどこだ?」

「……葭町(よしちょう)」

「日本橋か。送って行ってやる」

「いらない。一人で帰れます」

おゆきは、礼を言うどころか笑顔も見せず、走り去ってしまった。

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