「江戸を斬る」
□離反篇
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生家である遠山の家にいづらくなって飛び出してきた金四郎は、かつて乳母だったお政のもとに転がりこんだ。
とは言え、お政が切り盛りしている魚政の店舗とひと続きの住まいは手狭だし、若い娘たちもいる。
旗本の若様の寝起きの場とするのは、さすがに畏れ多い。
そこで、お政が別に持っている長屋の一室を、「出世払い」と称して借り受ける運びとなった。
魚政は、いたって繁盛していた。
何年か前に亭主に先立たれた折は、「二人の娘をかかえて、女手一つでどうするのか」と兄の新門辰五郎をはじめ、周囲を危惧せしめたものだ。しかし、お政は、水戸家や遠山家といった大名・旗本の屋敷奉公で身に付けた、度胸と教養を備えていた。
持って生まれた気立ても、幸いした。江戸っ子らしいきっぷの良さで、人心掌握はお手のもの。まだまだ充分に若々しい、もちもちの肌――――実際お政は、多くのものを持ち合わせていた。もちろん、商いに必要な才覚も。何より、人を見る目も。
あれよあれよという間に、お政は商売を軌道に乗せていった。
金四郎は、初めのうちこそ、こまごまと店の手伝いをしようとした。が、侍姿で売り子がつとまるわけでなし、何よりお政が下にも置かぬ扱いをして、手伝わせない。
それでも小言だけは遠慮なく続けるものだから、金四郎にとっては気安く頼れる存在である反面、煙たい存在でもある。
いつまでも、こうしているわけにはゆかない。だが、何をどう考えて、変えてゆけばよいものか。
「いま考えたって、埒もねぇな……」
ぼそりとつぶやいて、金四郎は夜の盛り場に出向く。それくらいしか、することがなかった。
★ ★ ★ ★ ★
魚政の面々は、江戸で一番朝早く、江戸で一番にぎやかな朝食をとる。
「金四郎さま、おかわりですか?」
「ああ、おゆきさん。すまねぇな」
おゆきは嫌な顔もせず、三杯目にも堂々と茶碗を出す金四郎の世話をする。その挙措は、いっそ場違いなほどに上品なことがある。
かと思えば。
「さぁみんな。河岸(かし)へ行くよ。今日も意気のいい魚を買い付けなきゃ」
「へーーい」
手早く着替えて飯台をかついで出かけて行く。おゆきは、何をするにも手際が良い。
「さて。俺は一眠りするか」
金四郎には、することがない。
★ ★ ★ ★ ★
「ね、お姉ちゃん。聞いた? 若様ったら、また朝帰りだったんですって。お酒の匂いやら白粉の匂いやら、いろいろくっ付けて帰って来たところを、おっかさんに見つかって、とっちめられてたわ」
珍しいことに、お千代が起こされるより前に起きたところ、そんな場面に出くわしたのは三文の得といったところだろうか。周囲はみな年上ばかりなので、自然と聞き覚えた、大人のような口をきく。
「一晩中どこにいたのかしらね」
「こら。そんなふうに面白がるもんじゃないわよ」
「あーあ。せっかく男っぷりのいいお侍さんなのに、もう少しこう……真面目になれないもんかしらね」
「お千代。そんなこと言って、たまに若様からご馳走してもらってるのを、知ってるんだからね。なじみの茶店だからって、おまんじゅうをオマケしてもらってるのも、知ってるわよ」
それでも、中身は子どもだ。おゆきからすれば、考えていることはお見通し。こうしてからかわれることも楽しんでいる様子の、愛敬者の妹だ。
「やだー。恐い恐い。お姉ちゃんったら地獄耳なんだから。さすが、おっかさんの子どもよね。血は争えないわ」
「ふふ、そうね……」
お千代は露ほども気付いていないが、二人は血がつながっていない。
ふと、思う時がある。自分の人生は、これからどうなってゆくのだろう、と。
このところ、顔見知りの娘たちの縁談がまとまったという知らせが相次いでいた。家族も、また娘自身も、嫁入りという人生の一大事には躍起になる世の中だ。
おゆきも、彼女たちと同じような年頃だが、かやの外。妹のお千代には、いつも冗談めかして話していた。
「お前がどこかの大金持ちと一緒になって、跡継ぎの子どもを産むの。一人目はそちらの跡取りに、二人目は私が引き取って、魚政の跡取りにするから」
「そんなこと言っちゃってぇ。お姉ちゃんの子どものほうが、お利口に育ちそうだわ」
「私のことは、いいのよ。あんた、今日はお花のお稽古でしょ。遅刻しないように行ってらっしゃい」
「はーい」
そんなふうに話を打ち切って、帳簿の整理をしながら、おゆきは考える。
おゆきにとって、自分のような出生の者が普通の娘として町家に嫁入りするのは、想像に難かった。だからと言って、水戸の父が決めた武家に嫁ぐのも、まっぴらだ。
だから、お千代に話したことは、まんざら冗談とも言い切れない。
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