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□望むのは一つだけ
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「おめでとうございます、3ヶ月ですよ」



少々肥えた女の先生に笑顔でそう言われたのが一週間前。
だけど私は………瑞希君に、まだ言い出せないでいるのだ。

一ヶ月以上の生理の遅れと断続する吐き気。
もしかしてと悩みに悩んで。
彼に内緒でこっそりと産婦人科に足を運んだ。
そこでの懐妊の通告。
そりゃもう驚いたけど、それ以上にやっぱり嬉しかった。
早く瑞希君に伝えたい。この時は心の底からそう思った。


だけどその帰り。
すれ違った大学生の会話のたった一言が。浮かれた気持ちを一気に吹っ飛ばした。




『大学出たら何するか決めたか?』




端から見たら他愛ない一言。
でも私にとっては、バケツ一杯の冷水をかけられるほどの威力を持っていた。

瑞希君はまだ学生で。
これから未来も可能性も満ち溢れてる。
社会に出れば自ずと今まで狭い世界にいたことに気付く。
そしてそこで沢山のことを吸収していって道が開けるだろう。


――――もしかしたら、私以上に好きな人を見つけるかもしれない。


そんな可能性を、未来を。
子供という存在で潰していいのだろうか。
彼の将来まで、奪っていいのだろうか。

まだ、彼は何か一つだけを選ぶには若すぎる。
その事実が。胸の奥深くに突き刺さった。

食器を洗いながら今日何度目とも分からない溜め息をつく。
いい加減ちゃんと伝えなきゃ、とは思う。
先延ばしにしてもいつかは分かってしまう。
不安ならそれを瑞希君に伝えて話し合えばいい。
頭では分かっているのだ。
だけどいつも喉まで言葉が出かかって結局口を噤んでしまう。
また一つ溜め息を洩らして蛇口を捻った。

大体、こんな風に悩むこと自体瑞希君を裏切ってる気がして申し訳ないと思う。
彼の愛を疑っているわけじゃない。寧ろ十分過ぎるほどだ。
それなのにどうして言い出せないのか。堂々巡りである。


瑞希君は驚くことはあっても、嫌がることはないと思う。
多分喜んでくれるんじゃないかな、とも思う。


だって瑞希君は優しいから。
本当に本当に優しくて。
あっさりと大学を辞めてしまいそうで怖い。
私のためにしたくもない仕事に就きそうで怖い。
そんなことになったら、きっと私自身を一生許せない。
そんな風に瑞希君の将来を潰すくらいなら。
未来を摘み取ってしまうかもしれないなら。



(……いっそ、私一人でこの子を…)




―――――ピンポーン。



「あ……」



呼び鈴に遮断され、自分のとんでもないマイナス思考に気付く。
また溜め息をつきそうになるのを何とか堪えて。
急ぎ足で玄関に向かう。
こんな時間に誰だろうと不思議に思って扉を開けると。




「瑞、希君……?」




今一番会いたくて、会いたくなかった恋人が立っていた。


そして部屋へ招き、お茶を出してから20分。
向かい合って座ったままとっくに冷めたお茶を見つめていた。
瑞希君は部屋に入ってから一言も発していない。
取り巻く空気にいつもと違うものを感じてつられて押し黙る。
何か話があるけれど、言い出せない雰囲気に似ていた。
いや、似ているのではなく、そうなのかもしれない。
嫌な汗が、首を滑り落ちる。

長針が十時を回ったところで、静寂に言葉が落ちた。




「……悠里、僕に………何か隠してない…?」




ドクリ、と心臓が跳ねた。
思わず視線を上げると、瑞希君の真剣な瞳とかち合った。
隠し事、なんて今は一つしか思い当たらない。


まさか、瑞希君はもう気付いて………?
まさか、そんな筈ない。瑞希君の前でつわりを起こしたことはないし、生理のことも言ってない。
でももしかしたら……だけどそれで違ってたらどうするの。
墓穴を掘ってバラすことになるのよ?こんな心の準備も出来てない状態で。


グルグルと色んな意見が混ざり合って、返事を返せない。
その態度が、隠し事が有りますと明確に肯定しているようなものだと分かっていたけど。
半ばパニックに陥った頭には、何の言葉も浮かんでは来なかった。



「…あ、お茶…っ!冷めちゃったから、淹れ直すね」



耐えきれなくなって、そう言って席を立つと。
瑞希君の手がやんわりと私の腕を掴んだ。逃げちゃダメだよ、と優しく諭すみたいに。



「……子供、出来たの?」

「!」



一瞬息が止まるかと思うほどの衝撃だった。
何で、とかどうして、とか様々な疑問が頭を駆け巡ったけど。
瑞希君の真剣な瞳に気圧されて、観念して微かに頷いた。
やっぱり、とばかりに軽い溜め息が聞こえて。身体が強張る。


どうしようどうしよう。バレてしまった。
嫌われるかもしれない。愛想を尽かされてしまうかもしれない。
最悪の場合ばかりが頭に浮かんで、泣きそうになる。
ギュッと目を瞑ったのと同時に、瑞希君に優しく抱き締められた。



「……何でもっと早くに言ってくれないの」



咎める口調とは反対に言葉の端々から優しさが滲み出ていて。
目を開ければ瑞希君は今まで見たことがないほど優しく微笑んでいた。
安心と混乱が一緒に押し寄せて来て、恐る恐る疑問を口にした。



「な、何で……?」

「? 何が?」

「何で…妊娠してるって……」

「悠里、僕は伊達にIQが高いわけじゃないよ」



ちゃんと悠里のこと、見てるよ。



その言葉にまた泣きそうになって、顔を瑞希君の胸に埋めた。
それからしばらく彼の腕の中で少し低めの暖かいに身を任せていたら。



「悠里、結婚しよう」

「えっ」



突然の言葉に驚いて顔を上げると、少ししょんぼりとした瑞希君の顔。



「……嫌?」

「い、嫌じゃないわ!そうじゃなくて……」

「何?」

「だって…まだ瑞希君、学生だし……」

「別に辞めたっていいけど…」

「っ駄目!!絶対ダメ!!!!」

「…悠里はそう言うと思ったから、辞めないよ」



瑞希君は薄く笑って髪を優しく撫でる。
いつも以上に優しい仕草に、場違いにも心臓が跳ねた。



「大学生と結婚するのが…嫌?」

「そんなんじゃないわ…」

「じゃあ、結婚しよう。僕は悠里とずっと一緒に居たい」

「………っ」

「まだ学生だけど、悠里に不自由な思いは絶対させないから」

「瑞、希君……でもっ……!」

「………悠里?」



今まで必死に耐えてきた涙が、一粒落ちた。
それを合図に堰を切ったかのようにボロボロと溢れ出し、頬を濡らす。



「っでも、瑞希君には将来がある…!まだ狭い世界しか知らない」



そう、瑞希君は。
これからもっと沢山の人に会って、沢山のことを経験する。
その中で自分のやりたいことが見つかるかもしれない、私以上に好きな人が出来るかもしれない。
だけど今瑞希君を私に縛ったら、瑞希君は責任を感じて私から離れられなくなる。
もしかしたらしょうがないから、と何かを諦めてしまうこともあるかもしれなくて。
その諦めた顔を向けられることが、見ることが怖かった。



「………悠里」

「そんなの、私がイヤなの……っ」



胸につっかえていたもの全てを吐き出した。
一気に捲し立てると急に力が抜けて、床にへたり込む。
口に出すと思っていた以上に溜め込んでいた自分に気付いた。


不安だった。どうしようなく不安だったのだ。
瑞希君の将来を潰してしまうかもしれないことも、いつか自分から去ってしまうかもしれないことも、子供のせいで私から離れられない瑞希君を見るかもしれないことも。




「馬鹿だな、悠里は……」




独り言みたいに呟かれた言葉。
私の目線に合わせてしゃがみこみ、そっと涙を拭ってくれる。
瑞希君は何故だか、幸せそうに微笑んでいた。
その顔を涙が止まらないまま、呆然と見つめた。



「悠里になら、僕は一生縛りつけられたって構わない。……違う、寧ろ縛りつけたいんだ」

「瑞希く……」

「……聞いて?悠里」



私の手を握り、まるで幼子をあやすような口調で話し始めた。




「僕はね、悠里が傍に居てくれたから、変われたんだ」


「体温を感じることに喜びを持てたのも、貴女が居たから」


「もう、……悠里が居ない生活なんて考えたくもない」


「子供が出来たならこれで……堂々と一生傍に居られる」


「……僕の将来を潰したくない、って言うなら一生傍に居て」


「一生僕から離れない、って……誓って」




これが僕の望みだよ。



パタパタと、いくつもの雫が手や床に落ちる。
今この瞬間に死ねたなら、どんなに幸せだろう。
本気でそう思った。

優しく抱き寄せられて、応えるように背中に手を回した。
涙が邪魔をして声が出ない代わりに、ありったけの気持ちを込めて。

耳元で空気が、微かに揺れた。





「僕と結婚してくれますか?」







end.
 

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