稲妻

□トラッテヌート
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どうすれば良かったかなんて、未だに解りはしない。

それはおとなになった、今でも。


















友情と恋情の境目は、一体どこにあるんだろう。

それは、円堂守の中で幾度となく浮かび上がって来た疑問だ。

そしてその疑問をもたらす原因になっている張本人は、今現在目の前にいる、鬼道有人という親友だった。


“普通”の友達なら、こんな風に髪の毛に触ったりはしないよな。

自分に確認するように、そっと、とても近い距離に在る少し珍しいスタイルの茶色い髪に触れる。
いちばん最初、どんな変な手触りなんだろうかとおっかなびっくり手を伸ばした彼の髪は、意外なことにとてもやわらかかった。
ふんわりとして、まるで…

「鬼道の頭ってさ、ふわふわしててすげえ気持ちいい。母ちゃんの毛糸玉みたいだ」
「お前は本当によく触ってくるな」

鬼道はゴーグルの向こうの目を少し細めて、円堂に好きにさせている。
ほとんど見えないはずのレンズ越しの表情が分かるくらいには、円堂と鬼道はともにいる時間を過ごしてきた。

頬をくすぐるのは、さらりとした上等そうな柔らかいシーツの感触で、そう云えば、泊まりに来た訳でもないのにこんな風に一緒になってベッドに寝転ぶのも普通、友達とはしないかもしれない、とも円堂は思う。

「……好きなのか?」

一瞬他のことに気をとられていると、鬼道にぽつりと尋ねられて、心臓がぎくりと波打った。

『すき』

短い間に、何回も心の中で反芻して、これは他意のない言葉なのだと沸き立つ自分を押さえ付けた。

「うん、好きだ。いつかおれも、ドレッドにしてみようかなあ」

我ながら、ナイスセービングだと評しながら答える。

「ふっ、やめておいた方がいいぞ。このヘアスタイルは、お前が思っている以上に、手間も暇も、費用もかかる」

鬼道は彼らしく笑って、律儀に教えてくれる。

「そうなのか?!」
「ああ。特に、洗った後乾かすのが手間なんだ。お前のように、拭いたも拭いてないも分からない大雑把なやり方などしていたら、雑巾みたいな臭いがしてくる」

シャンプーのあと、毎回ドライヤーも使わずおざなりにタオルでガシガシやるだけなのを指摘される。

「うわあマジで…?だから鬼道はいつも念入りにドライヤーかけてたんだな」
「まあな。それに……オレはこのままのお前の髪が好きだ」

そのままくしゃりと癖のある跳ねた髪の毛を撫でられて、円堂は大袈裟でなく固まった。

『すき』

分かってる。
鬼道は今、お前の髪が好きだと言った。

何という事もない台詞にいちいち反応してしまうのは、やっぱりもう、友情と恋情のボーダーラインを、自分のこころが飛び越えてしまったからだ。

そして一旦、越えてしまえば、何気ない小さな仕草や言葉、視線の行く先や偶然触れた温度にさえ、どんどん煽られ独り善がりに突き進む。ゴールなんて見えやしない。キャッチして欲しい相手は、フィールドに来てくれる望みもない。
きっと成立しない虚しいゲームなんだろうに。
なのに、円堂は進み続ける足を止められなかった。
例えたどり着いた先が結局無人のゴールだったとしても、むしろその可能性の方がずっと高いとしても、自分は渾身のシュートを打たない限り、絶対に諦めがつかないのだろうと思うからだ。

それでも一度口に出してしまえば、なかったものにして今までと同じ顔で一緒に居続ける事はできないだろうというのも、いとも簡単に想像できた。

二度と“友達”に戻れなくなる。
それは円堂にとって、高潔な彼に向ける恋情を“気持ち悪い”と罵られ、馬鹿な事を言うなと一刀両断されるよりも、もしかしたら恐ろしい。
もしかしなくても、怖い。
そんな恐怖を味わうくらいなら、いっそキーパーのいないゴールを睨み付けたまま足下でボールを弄び、シュートをためらっていた方がマシにも思える。
このもやもやとした、浮き沈みの激しい感情を抱き続け、永遠に勝敗を決めることなく誤魔化し続けるのか。

しかしそれだって、とても苦しいだろうと簡単に想像できるから、円堂には選べなかった。

選べないままこうして、ボーダーラインを越えたような辛うじて踏み留まっているような、危うく微妙なラインに居続けている。
ほんの少しオーバーすれば、友達のくせに踏み込み過ぎだと眉をひそめられ、いつ拒絶されてしまうかもしれない、ぎりぎりの瀬戸際。

そんな事を思いながらふわふわの感触をしばらく楽しんでいた手が、自然と頬っぺたにも触りたがって移動しようとしているのに気付いて、なんとか押し留める。
あぶなかった。

性格の割りに、丸くてやわらかげなほっぺ。

髪に触れることは容されてる。
じゃあ、頬は?
指は?
背中と背中がくっつくのはどうだ?

悶々としながら、人の事はとても言えない自身の丸々とした頬に思わず触ろうとした時、不意に指が伸ばされて、その丸いほおっぺたが摘まれた。

「ふぎっ」

柔らかいのを自認するだけあって痛くはないが、突然だったから妙な声が出てしまった。
犯人は、ニヤニヤ笑いながら、なおもぐにぐに引っ張ってくる。

「ほいひどう、はにふんだよ」
「くくっ。いや、あんまり気持ち良さそうだったからな」

やはり柔らかいなと呟く鬼道の小づくりな指の感触を改めて意識してしまうと、どんどん顔が熱を持っていくのが分かった。
やばい変に思われる。

慌てて相手のなめらかそうな頬をぎゅむと摘みあげた。咄嗟にやり返したのは考えての行動ではなかったけれど、結果的にさっき浮かんだ願望は叶えられた。

「ひどうのもやはらけーぞ」
「ほまへにはまへるがな」

お互い真面目な顔をしているのがなんだかやけに可笑しく感じて、ぷっと吹き出す。
そして今度は指の背で優しく頬をなぞって、摘んだところをさすってやった。

鬼道も、摘むのをやめて少しはにかんだようにも見える微笑みを口の端に浮かべている。
不意に円堂は、急激に腹の底から沸き上がってきた疼く感情に全身を支配された。

たまらなく、鬼道が、好きだ。


「好きだ」

どうしようもない、うち震えるほどの情動を自覚し、ほろりともらしてしまう。衝動的でもあり、蕾が花開くがごとくに自然でもあった。

鬼道は瞬間、息をつめ、突き破られるのではないかというほど強い視線で見つめ返して来た。

自分の口が発した言葉の衝撃を遅れてじわりと受けた円堂は、ゴーグルがなければきっと本当に刺さっていたであろうそのあまりの鋭さにたじろぎながら、ここは誤魔化してしまった方がいいのか恐るべきスピードで考え、そして却下した。
どうせ、誤魔化しようもなく好きなのだ。
遅かれ早かれ、抱えきれなくなるのなら、明らかになるのは今この時でも構わないと思った。
やってしまったことを後悔するのは、円堂の性に合わない。大切なのは、これからだ。

鬼道の唇が形を変える様に、ごくりと唾をのむ。無意識からの行動だった。

「……円堂、念のために訊く。お前の言う“好き”とは、まさか友人としての好意を越えているとか言いだすんじゃないだろうな?」

円堂は答えない。代わりに、目をつぶりたいのを最大級の意思で押し退けて、否定もせず鬼道の目から視線を反らさなかった。
無言の肯定。
もしかして有罪宣告を受ける者はこんな気持ちだろうかと、不謹慎な考えが微かに頭をよぎって、どこかに消えていく。

恐らく伝わったであろう、肯定。
円堂の答えを受け取った鬼道は、がばりとベッドから身を起こし、応えた。






「今すぐ、そんな馬鹿げた感情を捨て去れ。今、すぐにだ!でなければ、俺は、………俺と、お前との関係は今日この場で終わりにする」


びくっと反射的に円堂はからだを震わせる。
まるで吐き捨てるように発せられたそれは、憎しみと言ってもよかった。
それほどの強い、頑とした拒絶であり通告だった。


円堂はなにも言い返すことが出来ず、口の中はカラカラで唾液が尽きたみたいに、渇いて仕方なかった。つま先から心臓まで、血液が凍ったみたいに冷えていく感覚にまた、震える。
先程までの、あの和やかで柔らかな空気は嘘みたいに消え失せ、今や鬼道から発せられるかつてない険しさで広い寝室の中は満々ちている。

けれどもこの時、予想していた中でも最悪な拒絶に萎縮してしまったがゆえに、円堂はとても大切なことに気付けなかった。
ましてやその事が、二人のこれからを決定付けてしまうなどと、円堂には分かるはずもなかった。









向けられたのは、嫌悪でも蔑みでも無かったのだと。
















人生に『もしも』は無い。

それでもこの時、恐れを握りつぶして抑えることなく踏み込んでいたら、

せめて、『嫌だ』と言えていたら、何かが変わっていたのかも知れない。

だが、円堂が選び取ったのは、




「………ごめん」

もう、二度と言わない。


親友であり仲間という座を手放す選択は出来なかった。
ようやく音を絞り出した唇は震え、喉にはのみ込むこともできない忌々しい灼熱の塊が詰まって焼けるようだった。

「………帰ってくれ」
「………おれ、帰る」

ほとんど同時に言葉を発し、互いにまともに顔を見ることさえ出来ずに、円堂はソファーに投げていた鞄と学ランをひっつかんで文字通り逃げ帰った。
涙が出ないのが不思議なくらい情けなく、切なく、やるせなかった。
どこをどう帰ったのかも、記憶が定かではない。訳の分からない、いろんな感情が身の内で暴れまわって、内側から食い破られそうだった。

普段ならば人一倍平らげる夕食も、母親にいぶかしがられながらも気分が悪いからと言って断り、当然のように、その夜は一睡もできなかった。

目を閉じると、己の想いを否定した鬼道の硬い声がまざまざと甦って、なぜあそこで秘めていた想いをもらしてしまったのか、ひたすらに自分を責めた。
責めずにはいられなかった。

明日学校で顔を合わせて、果たしてどんな目を、言葉を向けられるのか、それは恐怖でしか無かった。
失うかもしれない。
もう、あの二人で過ごす温かでまろやかな時間は、永遠に喪われたのだとしたら。

ずっと前、必殺技ができなくて苦しんだ時ですら、これほど明日が来てほしくないとは思わなかった。


それでも、どんな辛い日にもどんな人間にも朝は平等に訪れる。
円堂は寝不足で重い身体と、それ以上に重苦しい心を引きずり、昨日までは弾んだ気持ちで迎えていた朝練に出た。



だが、恐れていたその時は、驚くほどあっさり過ぎ去った。
鬼道は、なにも変わらなかったのだ。
先に部室で着替えをし終わっていた鬼道は、いつもと何一つ変わらない様子で、「おはよう、円堂」と言った。円堂にしてみれば、昨日のあれは夢か幻かに思えるくらいに。
ホッとしても良いはずの状況に、けれど円堂の中に生まれたのは胸に穴が開くような喪失感だった。

あの時の言葉通り、やはり無かったものにされたのだと思い知らされ、
そして、常に自分の気持ちに正直でいる――これまで自身が大切にしてきた信条や信念を、自ら覆し、棄ててしまったということが、円堂の心に重くのし掛かり、傷ませる。

昨日触れた髪も頬も、すぐそこにあるというのに、今はひたすらに遠く、だが目の前に横たわる現実を見れば、それでも、それでもなお、円堂にとって鬼道を失うことに比べればずっとマシだったのだ。

まだ、一緒にサッカーができる。

円堂は努めて平生を装い、これまでと何ら変わらない日常を演じなければならなかった。
本気で演じれば、役者が役になりきるように、それは本物になる。
そう思い込み続けるしか、その時の円堂にはできなかった。

それが優しさや思いやりや、友情だと思いたかったし、ボーダーラインを踏み越えた己を赦してくれた鬼道への謝罪でもあった。













こうして中学三年の夏、
円堂守は親友を一人失わずにすんだ代償としてかけがえのないものを無くし、自らに忠実に歩んできた輝かしいこども時代を終えた。




笑えない欺瞞と真摯な熱意とで月日は織り上げられてゆき、役者は役を降りることもできず、おとなになる。










後書に続く
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