歯医者さんシリーズ

□温度<ヒーロー>
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オレの生家のななめ向かい三軒先には、昔から接骨院がある。

そこの家には、やけにオレを意識してくる同い年の子どもがいた。つまりいわゆる“幼なじみ”というやつだ。


父さんが元気な頃は、うちに父親と一緒にしょっちゅう顔を出し、親同士が顔突き合わせて小難しい話をしている間、オレの部屋で遊んだり手入れされた広くて入り組んだ庭でかくれんぼをしていたのを覚えている。

早くに母を亡くしたオレには兄弟はおらず、またそれは向こうも同じであったし、似た境遇なのと近所には他に同じ年頃の子どもがいなかったせいもあって、それはもうよく遊んだものだ。


父さんがあんな事になるまでは。






 度








すべては、大学病院に勤務していた父が、ある医療ミスの責任を取らされ、無期限の謹慎処分…つまり事実上の解雇を言い渡された事に起因する。

建前は自主退職ではあったが、今から考えるとあからさまな“蜥蜴の尻尾切り”。いや、そんな事を言っては本物の蜥蜴に失礼だろうか。

とにかくその一件以来、家に押し掛けて来る新聞や雑誌の記者連中のデリカシーの欠片もない詰問や、無記名の投書──無論中身はほとんど全てが中傷で埋まっているものばかり──や、家に居れば鳴り続ける電話に神経をすり減らされ、やっとの思いで外に出れば言われのない罵詈雑言と近所中からの白い目にさらされる、そういう“平穏”とは180度かけ離れた喧騒がオレ達家族の日常になった。


それはまるで、悪意という名のプールに頭から突っ込まれ、苦しくて苦しくていくら助けを求めてもがいても、せせら笑いながらオレ達が溺れるのを待っているような。

ばたばたと足掻いて必死で壁にすがりつこうとしている手をぐじぐじと踏みにじり、嘲笑っているような。


当時のオレにとって、毎日は終わりの見えない悪夢になった。


初めてカミソリ入りの封書を開けて、ぱたぱたと血をこぼす自分の指を見つめた時の、父さんの顔。

実際、オレは今でも時々夢に見る。
驚きに目を見開き、次に信じられないと言わんばかりに口を開きかけ、けれど結局音にされる事はなく、唇は引き結ばれる。
歪んだ眉間のしわの深さは、痛んだ心の傷の深さと同じだった。


元来、静寂を好む質だった父は、世間からの凍てついた風評と、鋭い氷柱(つらら)で全身を串刺しにするかのような攻撃に、見る間に衰弱していった。

電話線を切っているのに、電話が鳴っていると言って真夜中でも飛び起き、通じない受話器に向かってひたすら謝っていた。

『息子さんを助けられなくてすみません』と。

父さんのせいじゃないのに。
それでもこの人は心底、申し訳なくて申し訳なくて、堪らなかったのだと思う。

人の命を救う…おこがましくも、そのお手伝い(助かるのは、あくまでも本人の意志と生命力だと譲らなかった)をさせてもらってるんだと言っていた父は、例え直接的に手を下した訳ではなくとも、小さな身体に宿った命の火が、目の前で消えていくのを止められなかった責任を感じていたのだろう。

その上、仲間にも裏切られた格好になったのだ。
その胸の内は、他人には計り知れない苦しみに満ちていたのだと思う。


食事を摂る事をほとんど放棄した父は見る間にやつれていった。

それはきっと、精神(こころ)の疲弊と衰弱に肉体(からだ)が引き摺られていたせいで。

それでも、嫌がる父を何とか宥めすかして、世間から身をひそめるように受診した先で言われたのは、
『ストレスが原因』
とだけ。

そんな医者の決まり文句とも言える診断なら、医師免許なぞ持っていない子どもにだってできる。

小さなオレにとって、父はヒーローであり、不可能などない存在だったけれど、

これまでたくさんの命を救う手助けをしてきた父を助けられる医者はいなかった。


医者は無能だ。

医学は無力だ。


日々少しずつおかしくなっていくかつてのヒーローを間近に見ながら、その幻滅はオレの深いところに根付いていった。

そしてとうとう、布団の中でもの言わなくなった父に触れた時、見切りをつけたのだ。


ぞわりと背中に悪寒の走るあの冷たさ。
そっと触れた指を頑なに拒絶するかたさ。

布団の中で身体を丸まらせ、一切から身を守るように縮こませた父の体は、すらりとした長身だった事を忘れそうなほど、あわれでみすぼらしく、……孤独だった。




オレのヒーローは、もうどこにもいないのだと。

冷たく宣告された朝だった。






これまでの付き合いや功績を鑑みれば信じられないほど参列者のまばらな通夜と葬式を終えてからも、勿論学校に行ける状態でも気分でもないオレは毎日、やけにだだっ広く感じる家で、何をするともなくぼんやりと過ごしていた。

父が自殺してしばらくは、取材と称して写真を撮られたり家の周りに記者達が群がっていたものの、すぐに世間は凋落した医師とその息子への興味を無くしたようだった。

あんな事があって激変してしまった父の事も、日々の暮らしも、覚えておきたくなんかないのに。

細かな仕草や言葉のひとつまで頭に刻み込まれていて、それは昼夜問わず自分自身を侵食して、柔らかい喉元に牙を立ててくる。

この時ばかりは、自分の記憶力の良さを恨まずにはいられなかった。

灯りを点けないと昼でも薄暗い玄関から見送った背中、踏む度にギシギシと鳴る階段の手すりに置かれた手、台所で新聞を読む横顔。

親戚が寄越す家政婦が通って来るものの、たった一人きりになってしまった家は、どこを見ても父とのこれまでが思い出されて、このままこの家で暮らすのは耐えられそうになかった。


そんな時に、静けさを取り戻した庭の荒れ放題になったままの生け垣から、ひょこりと真っ黒いおかっぱ頭が飛び出して来たのだ。

「カカシィ!!しょうぶだああー!!!今日までで、おれの21しょう22はい1ひきわけだからな!かちにげはゆるさんぞおお!!」

「……ガイ…」

「さあ今日はなんのしょうぶだ!?かくれんぼか?じゃんけんか?うでずもりか?」

「悪いけど、オレそんな気分じゃないんだよね。…てか、うでずもりて何よ?腕相撲でしょ」

「わはは!そんなもの、どっちでもいい!なにをするんだ!?」

「…どっちでも良くないし。…ハァ……んじゃ、腕相撲でいいよ」

「よおおーし、うぉーみんずあっぷするからちょっとまて!きんにくをあたためてほぐしておかないと、思わぬケガのもとになるからな」

それを言うならウォーミングアップでしょうが、という突っ込みを入れながら、どこかズレたヒーローものの主役かと思うような登場をしてくる、以前と少しも変わらぬ幼なじみの調子に、オレはぐいぐいと力業で過去を取り戻させられる。
日数にすれば、そう昔ではない。一年も経っていないというのに、何故だか恐ろしく遠い記憶になっていたあの頃に戻ってゆく。


「よし!!カカシ、こいっ!!!」

縁側に置いてある、籐の丸テーブルの上に腕をのせ、ガイは臨戦体勢で待ち構える。

オレはその、ぴっちり切り揃えられた前髪の艶々としたおかっぱ頭と、親父さんにそっくりな太い眉、立派な団子鼻を見ながら、ガイと掌を組み合わせた。

すぐに、ぎゅうっ、としっかりがっちり握り返してくる。

まだ小さいくせに武骨なガイの指と厚い掌は、アイツの性格そのままにじっとり汗ばむほど熱くて。

ほんとうにびっくりするくらい、温かくて。


冷たくなった父さんに触れてから、ずっと冷えきっていた手に伝わってくるぬくもりに、オレは知らず…泣いていた。

いや、この時になってオレは、こんなに冷えていたのだと初めて気付かされたのだ。


「なあ、カカシよ。…おまえはおれの、“えいえんのライバル”だからな。だれがなんて言おうと!」

しゃくり上げながら泣くオレに、ガイは親父さん譲りのいつもの口調で言った。

「だから、ほかのヤツにまけるなんて、ぜったいにゆるさんぞっ…!!」

滲む語尾にガイを見れば、だあだあと涙を流して泣いていて、それでも「さあかかってこい!」と腕に力を込めてくる。


ガイはいついかなる時もガイだ。
なんにも変わらない。


オレはその熱さに心底安心して、
そして

暑苦しい幼なじみが居てくれた事に心底安堵した。





それからも、ことあるごとに勝負を挑んでくるこの幼なじみは、ますます父親そっくりに成長して、家業の接骨院を継ぐべく柔道整復師になった。

オレがマンションに住むようになった今でも時々うちにやって来ては、勝負に負ける度にオレのマッサージをしている。

例え負けても整体の腕が磨けるとかいう“自分ルール”らしい。

それは、自分には才能がないと言い切り、人一倍努力をするアイツの、他人には隠された一面だ。


この男は、普段こちらの都合なんて顧みずに青春だの何だのと言って我が道を進んでいるくせに、
内部告発によって父の醜聞が拭われた時も、
オレが左眼に傷を負った時も、
狙ったように顔を見せては腕相撲を仕掛けてくる。



紅には、「まるで共通点のないアンタ達が、どうして長い間つきあってるのか分からない」と不思議そうに言われたけれど、
そして時々…いや割と頻繁に鬱陶しいと感じることがあるのも事実だけれど、


……オレはあの暑苦しさが嫌いじゃない、と思う。

それに、あの真冬でも熱い掌でマッサージされるのも、正直言うと嫌いじゃないのだ。






後書に続く
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