並行する宇宙のひとつ
□図書館の杜
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サクモさんは自分の専門分野に関しては、ただただ驚くしかないほどの知識と愛情を持っているけれど、こと日常生活に於いてはいろいろと欠落している部分の多い人だった。
学者という人種は多分にそういうものなのだと今は知っているが、その当時のおれにとってサクモさんは会うたびに驚きと呆れと…そしていとおしさを募らせる存在だった。
いつだったか、図書館でひとしきり静かな時間を過ごしたあと、「ミナト、食事に行こう」と言い出したサクモさんに連れられて行ったレストランとは言い難い近くの小綺麗な定食屋でのこと。
トイレに立ったサクモさんがいつまでたっても帰ってこないものだから、ひょっとして気分でも悪いのかと心配になって行ったおれの目に映った光景は…
うんうんと引っ張ったり押したりしてドアと格闘している彼の姿だった。
…いや、それはどう見ても横に引くタイプでしょう?
おれが無言で、すっと戸を引いてみせると、彼は心底“へえ!なるほど”という顔をして「すごいねえ、ミナト」と言った。
…いや、全然すごくないですって。見れば分かりますから。
こんな風に、世界の文学が事細かに刻み込まれている彼の脳からは“常識”や“当たり前”といったものは零れ落ちてしまっているようだった。
それはあの人の一般的には駄目な部分であったし、実際普通の勤め人にはなれそうにもなかったけれど。
そんな姿を目にするたびに、おれはまだ、遥かに歳上のこの人に手を伸ばしてもかまわないだろうと思えた。
きっと初めて会った時―――苦手だ、と感じてしまった時点で、もう―――意識していたのだと思う。
幾度も図書館で顔を合わせ、話し、柔らかく笑む表情を目にして。
この人のそばにいたいと、改めて考える事もなく、おれにとって図書館はあの人そのものになっていた。
だけど先に言ったように、好きな事について語る彼の、まさに惚れ込んでいるといった熱っぽい口調や、作品の素晴らしい点を数限りなく挙げて賞賛するたびに、おれは嫉ましくてたまらなかった。
果たしてそれだけの愛情と熱情を持って、あなたは現実の人間を求めた事がありますか、と何度問いかけたかったか。
他の誰でもなく、おれを見てくれ、と何度叫びそうになったか。
何年も前に亡くなったという彼の奥さんとたった一人の息子だけが、あの人の内側に、大切にしまわれている存在で。
おれなんか、どう逆立ちしたってかなわない。
もしあの人への気持ちが明確に恋愛感情かと訊かれると、その当時のおれははっきり答えただろう。
ともにいると何より満たされる。
だけど同時に子供っぽい執着心が頭をもたげてきて、世界中でこの人を理解してあげられるのは自分しかいない、と傲慢なまでの独占欲に支配されてしまう。
彼の狭い交友関係にも
彼の深い知識にさえも
おれは嫉妬し、
彼を彼たらしめているものからも攫っていきたいと願っていた。
こんな黒い想いが恋なら、おれはもう二度と誰かを好きになる事なんてない。
そう、思っていた。
流石に中学や高校のガキでも、男同士で、しかも一回り以上歳上である事が、壁だと感じていなかった訳じゃない。
いくら幼いところを持っていたとしても、常識外れな行動をしても、彼はれっきとした大人で、おれは悔しいくらい子供だった。
ただ、どうにもならない恋だとしても、そばにいたかったから。
冷たくなったあの人の亡骸を見たとき、ああ、おれはもう、そばにいることさえできないのだと――麻痺した頭でそれだけは悟った。
あれほどあの人だけを見ていると思っていたのに。
おれは、罪深いほど無力だ。
彼と同じ道を歩む事は苦しみでもあったけれど、かつて共に開いた本をめくれば、彼の声や息遣いまで聴こえてくるようで、到底離れることなど出来なかった。
何より、彼の葬儀から数日経っておれの元に届いた一冊の本は、あの人からの最後の言葉を雄弁に伝えていたから。
その、『ミナトへ』と書いてある文字を目にした途端、葬式の時にも出なかった涙が溢れてきた。
後から後から流れて、止まらなくて。
悲しみ?
悔しさ?
憤り?
その全てのようで、どれでもなく。
朝まで泣いて、空っぽになったおれに分かったのは、これが“喪失感”だという事。
おれは、生涯かけて幸せにしたい人を喪った。
サクモさんが遺した本を読むのに、それからさらに数日を要し、読み終えたおれの中には、少し目を細めてうっとりと書物を眺めるあの人の姿がはっきりと刻まれていた。
『ミナト、ミナト、面白いと思わない?』
耳に残る
図書館の杜に抱かれたあの人の声
あの人が愛したものを、愛したいと願って。
今おれは、ここに立っている。
あ、何だか感傷的な話になっちゃったね。
だけど、本当に特別だから。
おれ、あの時以来、一回しか泣いてないんだよ。
ん、そう。ナルトがね、産まれた時だけ。
クシナに呆れられるくらい泣いちゃった。
うん、もう一生恋なんてしないと思ってた。
だけどあの時クシナが、一晩中泣いてるおれのそばにいてくれたんだ。
彼女の温かい手を離したくないってことに気付くまで、何年か掛かっちゃったけどね。
終
後書に続く