並行する宇宙のひとつ

□True colors
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世の中というのはままならないと、たかだか22年ばかし生きてきただけで、よく分かっている。

分かったと言いきってしまうのは嘘になるだろうか。

それでも、中学を出て以来、毎日毎日オイルと排気ガスの臭いにまみれた暮らしを送っている俺には、やはり人生はままならないと日々思い知らされる。


例えばそれは、自分と同じ歳の持ち主が乗り回す自分には夢のような高級車の整備中だったり、長年片想いしてた彼女が自分の友達と付き合い始めたり、そういう時、まっとうに真面目に生きているのになんでいつもこうなんだろうと、周りには馬鹿みたいに明るいやつだと思われてる俺だって、さすがに落ち込んでしまう。


だけどどんだけクヨクヨしたって羨んだって、朝は来るのだ。

フロントガラスと違って、UVカット効果なんて全くないカーテンを開けると眼の奥まで刺してくる黄色い太陽は、恨みがましいほど清々しく眩しい。
色褪せかけたカーテンに付いた埃が朝日に煌めいてふわふわと舞うのを見ていると、
東京の日の出すごい綺麗だな 昨日の濁りもどこへやら、
という大好きなバンドの歌詞が頭に浮かんで消えていった。

だから俺は、ばちんと平手で両の頬っぺたを叩いて今日も出勤する。
じんじんヒリヒリする顔は、鏡の中で少ししゃんとしてくれたように見えた。

誰の返事も返ってこない部屋に行ってきますと声を掛けて、履き古したスニーカーの紐をきゅっと結ぶ。
買い置きの食パンを切らしているから、今日の朝メシは角のコンビニで調達しよう。




何だかんだ言っても愛すべき仕事場ガソスタまでの片道徒歩10分の通勤途中、正確に言えばコンビニの100メートルばかし手前に変なものが落ちていた。

まあ正確に言えば、落ちていたのではなくて、見つけてしまった、だ。

モトは白かったのかもしれない…と自信がなくなるくらい泥と砂ぼこりと鳥のフンとにまみれたボディのバン。

特徴的なバンパーの形からして、90年代以前(なんと20年以上前だ!)のサンバー。

駐禁スペースに停まっている。この辺はよくパトロールされる区域だから、あのままそこに停めてあればすぐキップを切られてしまうだろう。安全週間だからなおさら。

つい4日前に一時停止無視で捕まってしまった俺としては、気の毒な同胞になりそうなクルマを、このまま放ってはおけなかった。

ひとつ抗議したいのだけど、俺は断じて無視はしていない。ちゃんと停まった。だけどオマワリさんは停止が短いだとかなんとか言って、俺の訴えを無視して無情にもさっさとキップを切ってしまった。なんてことだ。クルマに関わる職業の身として、運転人生無事故無違反が目標だったのに。俺のゴールドちゃんカムバック!

しかし叫んでみたってゴールド免許は戻らないのだ。そんな訳で、もし運転手が近くにいたら一言忠告しようとサンバーに近づいた。

後部座席は何やらたくさんの荷物でぎっしりと埋まっている。

そして運転席には、ハンドルに顔を伏せてぐったりしている男の姿があった。
寝ているにしてはおかしい。瞬時にやばいと判断してガラスをごんごんと荒くノックする。反応がない。

ますます大変だと、慌ててドアに手をかけるとあっさりドアは開いた。ロックしてないのかよと思うのと同時に呼び掛ける。

「おいっ!アンタ大丈夫か!!」

揺り動かそうとした時、ゆらりと白髪みたいな頭が動いて持ち上がり、途切れ途切れに低めの声が聞こえてくる。

「……おなか……すい…た……」

お腹すいた……?今この人腹減ったって言ったか!?

「ちょ、メシ食ってねーだけ?!すぐそこにコンビニあるじゃん。ここ駐禁だから停めとくとやべーんだってばよ!」

そしたらじいさんみたいな髪の男は小さく左右に首を振った。

「ガソリン、ないから……」

ガス欠?もしかして金持ってないとか?!

「とにかくここに長いこといられないだろ?ちょっと待ってろ。食い物とガソリン持ってきてやるからさ!」


それから俺は携帯で社長に連絡してガソリンをポータブルタンクに用意してもらい、駆け足でそれを取りに行って、ついでにコンビニで適当なおにぎりやら弁当やらをざかざか取って素早く会計を済ませた。

職場まで動かせる程度にガソリンを補給した車は、頼りないエンジン音を響かせて動き始めた。

ガス欠以前の問題であちこちガタがきているのだと知れる年代物のエンジン音やクラッチの違和感を、すでに身体に染み付いた癖のように耳や肌が感じ取る。

これまた荷物でごちゃごちゃしていたのをなんとかどかして助手席に押し込めた男は、夢中でおにぎりを頬張っていた。

短い距離を移動してガソスタに車を入れ、邪魔にならない場所へ寄せてエンジンを切る。

ちらっと助手席側を伺うと、男は三つ目のおにぎりを食べ終え、ふぅと大きく息をついたところだった。

勢いでやってしまったものの、俺は何をやっているんだろう。
この人が警察に捕まろうがお腹が減ってようが俺は痛くもかゆくもないのに。

……ああ、そうか。
これは捨て猫や捨て犬に対する気持ちと同じなんだ。
最後まで面倒を見る事ができなくても、自分ができる事をしてやりたいと思う。
それをただの自己満足と嘲笑いたいたいやつは笑えばいい。だってそうやって言うやつに限って何にもしない。口ばっかりだ。俺はそういう人間にはなりたくないし、むしろ自己満足の何が悪い!と言ってやりたい。俺の自己満足で、誰かが一時でも助かるなら万歳この野郎!だ。
その後のことはそいつ自身がどうにかするしかないとしても。少なくとも俺はそうやってきた。


「あの、」

おにぎり男が、ぽそりと口を開いた。

「ん?」
「あの、おにぎり、おいしかった。それと、車も…」
「いーよこんくらい。てかさ、腹へって行き倒れるとか今どきすごいねアンタ。……お金全然持ってねーの?」
「行き倒れ……ぷっ、あはははは…!ふふっ、うん確かにオレ行き倒れてたね。おまけにガス欠。車が動かなくなってどうしようかと思ってたら、お腹減って動く気力なくなってきて。気が付いたら君の声が聞こえてきたんだよねえ」
「運転手もクルマもガス欠かよ……ちょっと訊いてみるけどさ、アンタいつから食べてなかったの?」
「え?えーっと、うん……そうだなぁ……」
「んな、覚えてないくらいかよ!」
「……あ、一昨日の夜なんか食べたような気がする。多分。オレ、ご飯食べるの時々忘れちゃうみたいでね」
「他人事みたいに言ってんなよ。危ねーなあ。とにかく、車はここに置いといていいからしばらく休んで行けよ。貧血でふらふらしてんのにこのまま行かすのも危なっかしいし。ほら、この弁当も好きに食っていいからさ」
「……ありがとう」
「っ、、だから、いいってこんくらい。あ!あと、アンタの車あっちこっち調子悪いみてーだから、余裕ある時治してもらったほうがいいってばよ。今度はガス欠じゃなくて故障で止まるかもしれないぜ?」

勝手な想像で、車であちこち放浪してる中年のホームレスみたいな人かと思っていたら、意外と身綺麗な格好をしている。
初めてまともに見た白髪のおにぎり男は案外若かった。

そして、こういう風にやわく笑う男に今まで出会ったことはなかった。

俺の周りには、社長を始め、“バアちゃん”と呼ぶと怒るその奥さんも、大好きな幼なじみの女の子も、とにかくはっきりした感情表現をする人たちばかりだったから、これはちょっとした衝撃だったのだ。

「そうか。うん分かった。ありがとう」
「じゃ、俺ってば仕事に戻るから」
「あ、……良かったら、迷惑ついでに仕事してるところ見ていいかな?邪魔はしないから、ちょっと写真撮らせて欲しいんだ」
「写真?…俺、給油したり洗車したり、そういうフツーなことしかしてねーけどいいの?」
「充分。君はいつも通り仕事してくれればいいから」
「アンタってさ、変わってんね」

俺が半ば呆れて半ば感心したように言うと、男は「何故かよく言われるんだよね」と目を細めて笑った。

やっぱり、やわく笑うんだな。


結局その日、最初は部外者に見られている(しかもカメラまで向けられてる)緊張感があって若干ギクシャクしていた俺も、いつの間にかそんなことは気にならなくなって、
夕方までいたおにぎり男のことなど、最後の客を見送った時には頭の中からすっとんでいたくらいだ。

社長に言われるまでは。


「おい、ナルト」
「あ、社長お疲れさんっした!」
「おう、お疲れさん。ナルト、今朝連れてきた客の事なんだが…」
「客?ああ、あのおにぎり男のこと?客って言えんのかなあれ……。あの人がどうしたんだってばよ?」
「……お前、勤務時間外だと途端にぞんざいな口のきき方になるのォ」
「まーまー。で、あの人がどうかした?いつの間にかどっか行ったみてーだけど」
「ほれ」
社長が手に持っていた一万円札を見せてくれる。
「これが?」
「あの客が置いていった」
「へ?カネ持ってたの?行き倒れてたのに?」
「そうみたいだの。忙しそうだから声を掛けずに行くが、お前に宜しく言っておいてくれといっとった。それと、お前の写真を他の者にも見せていいかと訊いてきたから、いくらでも構わんわいとワシが答えておいたからな」
「あ、なに勝手に答えてんだよ社長!」
「アホ面が減る訳じゃなし、構わんだろうそれくらい。そら、これはお前がとっておけい」
「!…いいの?」
「いいも何も、お前が拾って来たんだろうが」
「サンキューだってばよ。………にしても、変わった人だったよなー。故障せずに行けたかな…」
「………あのカメラ………」
「ん?」
「いや、何でもない。それよりナルト、晩飯はウチで食っていかんか?綱手が今夜はすき焼きにするからナルトも呼べと言ってな」
「やった!バアちゃん大好き!」

社長の奥さんの手料理は、たまーに大ハズレがあるけれど、おおむね美味い。

「最近お前にしちゃ少し元気がなかったからのう、気になっておったんだが…今日は愉しそうに仕事しとって安心したぞ」

ああそれで、晩ご飯に誘ってくれたのかとやっと気付いた。
社長と奥さんの間には、夫婦仲がいいのに子供がいない。いくら奥さんが若く見えても、もうこれから子供が授かることはないだろう。
だからか、二人は昔から、反対に親のいない俺の世話を焼いてくれている。
以前、養子の話を匂わされたこともある。だけど、きっぱりと断った。二人のことは大好きだし、尊敬もしているけれど、頼って甘えきってしまいそうで嫌だったから。それに、俺の親は死んだ父ちゃんと母ちゃんだけだ。


もう二度と会うことがないだろうおにぎり男にもらった一万円札を、俺は丁寧に畳んでポケットにしまった。

そういえば名前も聞いていなかったと今更思う。

文無しでもないのに、行き倒れていた変な人。

名も知らぬあの人の車が、どこかで止まったりしないよう、俺はそっと心の中で祈って、ポケットをぽんぽんと軽く叩いた。
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