名前のない国


∴誰かと『俺たちのお姫様!』ヒロイン

……………

@

「あれは生き残るかな」
 口に出して苦笑いした。
 自分でもまるで野良猫か野良犬をさすような言い方だと思った。
「はあ、あれ……ですか」
 副官の視線の先には小さな、とてもとても小さな、幼女と言っても過言でない少女が一人。
 鎧を身にまとい、戸惑ったように視線をきょろきょろとさせている。
 眉はへの字に曲がり、今にも泣きだしそうなほど顔は歪む。
 人馬が行き交い、鬨の声があちこちであがる、開戦前の陣中ではあまりにも浮いていた。
「――様、大丈夫ですよ」
 見るからに歴戦の勇者、といった男が声をかける。
 少女は彼の足にしがみつき、男は背を撫でながら穏やかに語る。
「――様は我々がお守り致します」


「……どうでしょうなぁ」
 副官は困惑を隠せない表情で上司を見た。
「過度な期待はしない。どうせ――」
 冷たい、それこそ万年氷の瞳で向こうを見遣る。
「“小都市”だ」

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A

 彼女は彼の住む町の近くにある“小都市”である。
 いつごろ生まれたのかは分からないが、とりあえず彼よりずっと年下で、更に言うと今この戦場に集まっている面々の中で一番年下である。

 彼女は町の人々に祈られ、願われ、望まれ、この戦場にはせ参じたという。

 おぼつかない所作で忠誠を意味する剣を差し出した彼女の小さな手を、興味も何もなく彼は見ていた。
(どうせ)
 それが精一杯なのだろう。
 華美な装飾品も金もなく、食料と水と、剣を持ってやってきた。
「よく働くがいい」
(すぐに、消える)
 少女らしさも何もなく、深々と頭を下げる姿を一瞥し、彼は剣を受け取ってマントを翻した。

 少女は呼ばれるまでずっとそこで、彼の背中を見つめていた。

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B

 興味を持ったきっかけは、少女が彼の窮地を偶然助けたことによる。
 戦場の混乱の中で背後をつかれた彼の軍の危機にいち早く気がついて一番に駆けつけ、奮戦したのは少女が旗を振るう“小都市”出身の兵士達だった。
 少女は泣きもせず、表情も変えず、前線で皆を鼓舞し続けた。

“国や都市は基本的に傷つかぬ病に倒れぬ死なぬ”

 少女がそれを知っていたろうか。
 援軍が見えた途端、疲労と緊張とで張り詰めていた糸が切れたように座り込んで泣いた。
 しかしそれも一瞬で、振り返り彼の状態を見た途端もう一度立ち上がった。
「立つな」
 彼女を守っていた兵士達はもう数えるほどだ。もともと少ないのだから仕方ない。
「立つな。お前に何が出来る」
 吐いてこぼれた血をふき取り、立ち上がる彼に少女は青い顔に汗を浮かべて言う。
「約束を」
 まるで劇の小道具のような鎧には土ぼこりと弓矢のかすり傷と、己のものなのか誰かの物なのか血の色も見える。
「守ります」
 そう言って彼の目の前から消えた者はごまんといたし、これからもそうなのかもしれないと思っていた。

 ――己の家の中では常に全てが移り変わる。

 ――常に誰かと誰かがけんかをし、誰かがとばっちりをくらう。

 ――誰かが誰かをあざ笑い、誰かを踏み台にして踏み台にされて。


 そして誰かが消えていく。

「……お前、名前は?」
「……」
 少女は困ったように眉をひそめて首をかしげた。
 目の前に敵が迫っているというのに何をのんきな、とでも思ったのか。
 それとも先日自己紹介をしたのにもう忘れたとでも言いたいのか。
 だが答えはどれでもなかった。
「ない、です」
「ない?」
 少女は困り顔のまま前を向いた。


 自我が芽生えたのが最近で、名前に執着すらないのだと知ったのは戦後処理が終わってからだった。

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C

 <―――>の名前を時々聞くようになった。
 小さいが勇敢で忠実な人が住む小都市。

 西日が差し込む部屋には己しかいない。
 愛用の机の上に詰まれていた書類は、ついさっき侍従が持っていった。
 あれで戦後処理の書類は終わった。
 しかし代わりに彼の目の前には一枚の紙がある。
 何も書かれていない紙。

 先ほどから自分は目の前の紙を見ては頭をかき、ペンを回し、頬杖を付き、そして時には冷えてしまった薬草茶のカップに手を伸ばした。
 そして夕暮れ。
「……」
 薄暗い部屋の中、目をこらし時計を見やる。
 時間はあまり残されていない。

 今日は小さな宴がある。
 そこには<―――>も来るはずなのだ。

 先日偶然会ったものだから招待状を渡すと、彼女はまた困ったような顔をして自分の傍らに立つ男を見やった。
『えと、その……』
 ちらちらと、男は<―――>と自分を交互に見やった。
『どうした』
『その、大変ありがたいのですが……』
 言いにくそうに男は<―――>を見た。
『<―――>様は、このような晴れがましい場は初めてでして……着ていくものもなければ作法などもとんと……』
 <―――>は困ったようにうなだれ、男の足の陰に隠れた。
『作法は構わないが着るものか……』
 ふむ、と手をあごにやる。

 ふと、懐かしい人影が微笑んだ気がした。

『……』
『あ、<―――>様!』



『お前、花は好きか?色は何色が好きだ?』
 <―――>の手は思った以上に小さかった。
 突然引っ張られた手に戸惑いながらも反抗することなく自分についてきた。
『わ……わかりません』
 大またで歩く自分に合わせて小走りになっていることに気づき、慌てて歩みを緩める。
『じゃあ見て選べ。俺も見てやる』
『……?』
 <―――>が不思議そうに首をかしげた。
 丸い目は人形のようにあどけなく、そして。
『約束を守ってくれた、礼だ』
 あの子によく似ていた。

 ……と言うのが一つ目のけじめで。
(一つ目というのは自分が勝手にそう思っているだけだ)
 ペンを回してまたうなる。
 ペン先にはインクはつけていないから周囲に飛び散ることはない。
(大体あいつはあいつではないし)
 川遊びをしたこともなければ、ハンガリーの衣装を着たこともないような奴だ。
 つい最近生まれたばかりで、何も知らない。
 何も知らない。
「……」
(それは幸せなことかもしれない)
 考えてみれば自分より年下の存在は色々会ったことはあれども、あそこまで幼い存在に自分は会ったことがないのではないか。
 大抵自我と言うものが目覚めており、何かしようものならぶっとんだ個性でやり返してくるような奴ばかりだった。
 だから国や都市名以外の名前もすでに持っていた。
(でもあいつは違う)
 自分の後ろのテーブルには、この間からひっくり返してみていた数々の書物が平積みに積まれている。

 これからもっと自我を持つだろう。
 うまくいけば俺と一緒に色んなことを知り、大きくなれるかもしれない。
(……)
 甘い夢だ。
(ドレスなんて見せなければ良かった)
 色とりどりのドレスに囲まれた<―――>は、頬をほんのり桃色に上気させてキョロキョロ周囲を見回していた。
 それは一度戦場で見たものとは違い、戸惑っているのは嬉しいからだ。
 きらきら輝く瞳がそれを教えていた。
 試着をさせたら自分の足にしがみついてきたのは、恐怖のためではない。
 はにかんだ唇は確かに笑みを作っていた。
 化粧も何もしていないのに、まるで部屋に一輪の花が咲いたように。
「<―――>、いや……」
 別の名前を呼ぼうとして思い出す。
 『彼女』は名前がない。


「―――様?」
 こんこん、とドアがノックされた。
「あのう、宴のお時間が……」
 時間が無い。
「ああ、分かっている!」
 腕組をしている間に誰か入ったのか、部屋には灯りが点されている。
 叫んで真っ白な紙に向かい、ペンを走らせる。

 ”―――”。

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C

 休みの時間のたびに姿を捜す。
 自分がもう一つの名前を彼女に与えてからそれは日課のようなものだ。

(”―――”)
 今日は城の中庭にいた。
 といっても”―――”の手には箒がある。自分ではないが誰かが彼女に言いつけたのだろうか。
 庭の落ち葉はきちんと一か所にまとめられており庭師が麻袋にそれを詰めているのも見えた。

「”―――”」
 もう一度名前を呼べばこちらを向き、はにかんで駆け寄ってきた。
「おい、その恰好じゃ転ぶだろう。ゆっくりでいい。歩いてこい」
 言うと素直に”―――”は速度を緩め、そのメイド用のスカートが下品に翻らない程度の速さでこちらへやってきた。
「主(あるじ)様」
 ずいぶんときれいにできるようになった王宮式の礼に軽くうなずく。呑み込みが早いのはいいことだ。
「気に入ってくれたか」
 また”―――”ははにかんだ。

 戦が終わり、お仕事はないですか、と何度か尋ねられた時思いついたのが家事の手伝いだった。
 それ以来他のメイドに掃除や洗濯、料理などのやり方を教わっているようだ。

「”―――”、何か面白いものでもあったか」
「……私の街と違うなあと思っていました」

 主様のところは色んな物がとてもきれい。
 
 しみじみとそれは本当に心の底から思っている、という声色で目の輝きにもそれは現れていた。
「そうか」
 不思議だ、と思う。
 日ごとに”―――”の目は輝きを増している。
 初めて顔を合わせた戦の時からどれほどたっただろうか。
 長い日にちはたっていないというのに、顔を合わせるたびに色を変えていく。
「お前、この庭が好きか」
「好きです」
「そうか。俺も好きだ。では眺めながら茶でも飲もう。何」
 いいのだろうか、と一瞬ためらった表情を彼は見逃さなかった。
「俺が飲みたいのだ。付き合え」
 そう言えば”―――”はこくりとうなずいてくれる。

 自分は熱いものを、彼女にはわずかに冷ましたものを。
 そんな好みの違いも分かってきた。
「ここでの暮らしに不自由はないか」
「はい、ありがとうございます」
 お互いそんなにしゃべる方ではない。お互いの近況報告、最近の流行、他国の話。ゆっくりとしたペースで会話は進む。
 しかし悪い気は全くしない。それどころか安心感さえある。
「……あのぅ」
 何故だろうかと考えていたところ、小さな声が聞こえた。
「どうした”―――”」
「”―――”様ー、どちらにおられますかー?」
 その時遠くから彼女を呼ぶ声がした。
 彼女の側近たちも次第に”―――”と彼女を呼ぶようになっているが、まだ慣れない者もいる。彼女の側近はその一人だ。
「呼んでいるな」
「……はい」
 ふ、と彼女が視線を伏せる。
「どうした。何か言いたいことがあるのだろう?」
「実は……一度街に帰らないといけないと」
「何故だ」
 思ったより低い声が出て、彼女が驚いたようにこちらを見上げた。
「で、でも戦はもう終わって……」
 あの宴から、月はいくらか欠けては満ちた。
 おろおろとしたように彼女がこちらを見ている。
「皆が帰りたいと話していて……」
「ならばお前だけが残ればいいだろう」
 ”―――”がおろおろした表情を止めると不意に空気が変わった。
 沈むような息の詰まるようなものに。
「主様がそうおっしゃるなら」
「そうしろ」
 その声は冷たくひどく苛つかせるものだった。

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