SKETCHES

□昏
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舌を噛まれる感触に我に返った。
シャツ越しに脇腹をなぞる指に苛立った視線を落とす。調子乗んなと呟いて掌ごと弾くとあたしを膝に乗せて向かい合っている男は離した唇を閉じて笑った。
誑かしただのされただの、この男の周りにはそんな情報ばかりが転がっている。元々、学校には来ないし(まともに授業に出た日数より噂になった女の数の方が多いんじゃなかろうか)、中学生でピアスなんて入れてる男にろくな奴はいやしないというのがあたしの持論だ。それでも茫洋としたあの瞳があたしを誘引した。口で人を黙らせるのが大阪の男なら、この男は目で人を黙らせる。例のピアスは耳たぶの上で髪の間から小さく光っていた。瞼をひくりと瞬かせて薄く微笑みかけてくるのを見て、何だかんだ言ってあたしもその辺の野良猫と同じ生き物なんじゃないのと諦める方が楽になった。この男に引っ掛けられることを諦める以上に。
あたしは左手を目の前の頬に這わせた。人差し指の爪先を下睫毛の揃う涙袋に潜り込ませる。眼球という人体の急所近くに爪を立てられてもその表情は変わらなかった。もはや機能をほぼ失った一つの瞳孔は、複雑な色と感情を内包したまま、揺らぎもしない。
あたしはもう片方の手で残った目を塞いでしまった。男の固いばかりの肩に肘を凭れ掛けさせて、顔と顔を寄せる。男は突然のことに焦りも驚きもせず、曖昧に唇で笑みの形を作ったままだ。さっき腰から払い落とした手が今度は背骨に沿うのを感じる。
「あたしが何やっとるか分かる?」
問い掛けに、指の腹の下で眼球がぐるりと動くのが分かる。
「何?お前Sっ気でもあっと?」
「あたしが見える?」
茶化すのを無視して右目を覗き込む。答えなど聞かなくても分かっている。表面には映っているのにこの男の内側までは染み込んでいかない薄っぺらなあたしの姿を自分で憐れんだ。
甘く茶色い虹彩の透明性に、あたしの方が溺れそうになる。
しっとりと滑らかな瞼を指で撫でた。何か言おうと開きかけて、そして噤まれた口元に頬を擦りつける。重力にならい日焼けした喉にまでずるずると顔を埋めて、これじゃ本当に猫みたいだ、と内心で舌打った。
相手の顔に纏わり付かせたままだった手をぱっと離すと、あたしは男の膝から立ち上がる。
「帰る」
淡い色をした制服のスカートの裾を軽く払って、その辺に放り投げていた鞄を掴んだ。
一足踏み出したところで、背後から声が掛かる。
「見えとる」
顔半分だけ振り返ると、先程と同じ笑みを浮かべて、自ら左目を隠してこちらを眺めている男がいた。
「お前んことはな」
温度のない瞳は形のない世界の光を捉えている。あたしの輪郭ではない。それでも、あたしは動揺した。
くらりと重い眩暈が襲う。
「千歳、……」
その言葉に、胸に飛び込んで口づけの雨を降らせたくなったと言ったら、この男は鼻で笑うだろうか。どんな手を使ってでもその瞳に本物の光を取り戻させてやりたい気持ちになったと、言ったら。
「……この、タラシが」
踵で砂利を踏みしめる。衝動を殺して低く吐き捨てた。そんな雑言にも目を細めて甘い表情をする。
あたしはまた前を向いて歩き始めた。くだらない、何もかも。あたし達はまだ触れるものも聞こえるものも見えるものでさえも、自分勝手に改変して受信してしまう子供なんだ。
噛まれた舌に今さら血の味を感じた。痛い。眉間を寄せた不機嫌な顔で空を見上げると、授業の始まりを告げるチャイムの音が遠くから幻のように流れてきた。

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