SKETCHES

□瞬愁
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寝巻も同然の格好の上にコートを纏って、部屋を出て、音を立てずに家の玄関を後にする緊張感だけは何度やっても慣れない。
誘い出された先は、クリアな月が浮かぶ近所の橋梁だった。
彼はこの場所が好きだ。決して小さくはない橋なのに、夜中になるとまるっきり車と人通りがなくなる。それでも律儀に灯りが点っているのが、滑走路に立っているようで気に入っているのだとかつて語るのを聞いた。
橋のたもとに、逢瀬の相手は立っている。
風が冷たかった。薄いカットソーにジャケットを羽織っただけの男は、夜の中にあって初めて呼吸し出すように見える。感覚器官の一切を閉じているのかと思わせる昼とは大違いだ。髪の隙間から瑞々しく濡れた瞳が見える。月の光と同じ色の髪が、さらさら輝いた。夜行性の生き物なのだ。
顔を上げて私に気付いた男は、こちらに向かってわずかに手を伸ばした。歩み寄って腕の中に迎え入れられれば、何も言わずに口づけた。
仁王の唇はいつだって、少しだけひんやりしている。
いつだったかそう伝えると、お前さんの体温が高いだけじゃ、何でもないことのように返された。誰と比べて高いのか、なんてくだらない質問をしそうになったのを覚えている。仁王が日々何を思い、何を好み、何を是とするのか──まるで水の中に影を追うようで、私のぼやけた視界では捉えきれない。
合わせている唇が動いて、私は薄く目を開いた。何か囁かれた気がするのに、一際強く吹き始めた風がびゅうびゅういうばかりで私の耳には届かない。もう一度、と今度は私が声にする前に、改めて頭を掻き抱かれた。
……人目のない所だと随分大胆になるんだ、知らなかった。
からかいの気持ちも込めて二の腕辺りの上着の生地を掴んでみる。仁王はどう受け取ったのか、腰に回した腕に力を込めた。ちょっと、骨が軋みそう。私の体は緩やかな『く』の字に反って、瞼を開けば仁王の背後に澄んだ夜空が広がっている。
どうにもならない。眩暈がしそうだ。
ようやく見つめ合うのに適正な距離をとって、私達は睫毛越しに視線を交わす。吐息が震えたのは寒さのせいだけではないだろう。
何でもいいから何か喋ろうと思ったのに、夜目を凝らすように瞳を眇めて微笑まれれば、言葉など抜け落ちてしまう。
コートの裾がはためいた。
──仁王、あなたはこうやって毎晩のように出歩いて、何を探しているの?
──それは私の中にある?
向かい合わせの顔より少し下、胸の辺りに目を落とすと、両手を掬い上げられた。器用な左手が右手を、同じ位器用な右手が左手を。仁王に大切なもののように扱われてしまうと、私はどうしていいか分からなくなる。
唇の端から漏れた無音の言霊は白くたなびき消えた。
手袋もしていない二人の指は、当たり前にかじかんでいる。
せめてマフラーを持ってくれば良かった。私はともかく、この薄着の馬鹿やろうを少しでも温めてやりたくて。
非難めいた眼差しに気が付いたのか、仁王は顔を近付けて、私を宥める時お決まりの表情をする。大泣きする迷子をあやすような、そんな感じのやつだ。困ってなんかいないくせに、そういうポーズをとるのは上手い。
一台だけ、私たちの脇を大きな車が掠めた。無遠慮に浴びせ掛けられたヘッドライトは眩しくて、頭の中がちかちかする。
ともすれば不機嫌になりかけた私を、再び仁王の腕が包む。文句を言うのはやめにして、ただ静かに寄り添った。
冬になると何故こんなにも夜の色が深くなるのだろう?
自分のものでない体温を感じれば落ち着くのに、反比例して高まっていくばかりの胸の動悸と、鼻につんとくる切なさがコートの内側をぐるぐる渦巻いている。
そうしてから、やっぱり何かを見極めんとするような真摯な目つきで、仁王は私の瞳を覗き込んだ。私が持っているものなら、いくらでもあげる。最初から何もかも、仁王のものだ。口には出せないが、あっちもきっと分かっている。重いものを背負いたがらない彼が、それでも私を受け入れたから。
たまらなくなって、ジャケットの肩に、前髪を擦りつけた。未だ残光に染まる瞼を閉じる。
心の全てを注ぎ込んでいる。きっと仁王との恋が終わったら、私の中には何も残っていないだろう。探し物が見つかる見つからないにかかわらず、だ。
目の前の男のせいで、私は深夜に家を抜け出すような不良娘になってしまった。それでももう戻れない。戻るつもりもない。
整然と並んだ電灯が、遠く知らない街まで伸びている。
私は顎を上げて、今一度、仁王に口づけをねだった。

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