dream2


貯古齢糖
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改めて思い知った。

ここは確かに私が生まれた国だけど、時代が違う。

私が育った現代と今ここにいる明治時代。

今まで当たり前だったものがここでは当たり前じゃない。

まさか、こんなに高い物だなんて思いもよらなかった。

だって、私が知ってるチョコレートはお手軽で、庶民のおやつ。

そりゃショコラティエの作るチョコとかメーカー品になればお値段も上がるけど。


「チョコレート一つであんぱんが七十個買えるってどんな時代…」


そんな高級品だったなんて。






貯古齢糖






―始まりは数時間前。

朝御飯の後、サンルームの暖炉で暖まりながらお茶をいただいていた時の事。

鴎外さんが読んでいた新聞にお菓子屋さんの広告が載っていて。

「ほう、貯古齢糖か。見たまえ、子リスちゃん」

鴎外さんに呼ばれて紙面をのぞいて見てみたけど。漢字が多くて読みにくい。

「どれがチョコレートですか?」

「これだよ」

指差された紙面には漢字で、貯古齢糖、と書かれている。

「これで、チョコレートって…読むんですか…?」

「ふふ、やはり子リスちゃんは洋行経験があるんじゃないのかい?貯古齢糖を知っているとは」

「え、チョコレート、ですよね?」

知ってますよね、と春草さんの顔を伺えば。

「…聞いたことはあるよ。食べたことはない。鴎外さんはあるんですか」

「ああ、独国にいた頃に飲料として味わったことがある。あれは中々に官能的な味がした」

官能的な味、かどうかは私にはよくわからないけど。

甘く、香り高く、口の中でゆっくりと溶けていく。

あの感覚は他のお菓子にはないかもしれない。

新聞の広告欄を眺めたままの春草さんに問われる。

「君も、食べたことあるの」

「はい。美味しいですよ、チョコレート」

答えた途端に渋い顔をされて。

「貯古齢糖って…牛の血が入ってるって聞いたけど」

え。
血、って。
血?

原材料名に牛の血なんて見たことない。

「春草、牛の血ではない。牛の乳、牛乳だ。粉乳が添加されてるのだ。血が入ってるなど、どこからそんな噂が出たんだか、まったく」

「へぇ…鴎外さん、詳しいんですね」

「かつて貯古齢糖は滋養強壮の薬として用いられていたそうだ。最も、薬というより今では嗜好品のようだが」

嗜好品、ていうと、タバコとかお酒とかと一緒ってこと?

「チョコレートって、庶民のおやつじゃないんですか?」

疑問を思ったまま口にしたら。
鴎外さんと春草さんが、顔を見合わせる。

え、私なんか変なこと言った?

「貯古齢糖が庶民のおやつって…いったいどこのお嬢様なんだ」

「異国文化の色濃い横浜か、はたまた阿蘭陀文化の影響を受けた長崎か…いずれにしても、華族か伯爵家出身の深窓のご令嬢であろうね」

「箱入り娘であろうことは分かりますが、食に並々ならぬ執念を燃やす所が解せません」

「春草、子リスちゃんにとっては食べることが生き甲斐なのだよ。頬袋がいっぱいに膨らんでいないと駄目なのだ。可愛いではないか」

食べることが生き甲斐ってほど食い意地張ってるだろうか。これでも年頃の女の子なのに。決してリスでもない。

そう思ったけどそれを口に出すよりも、チョコレートが一般庶民の親しみある味では無さそうなことにショックを受けた。
明治って、文明開化とは言ってもまだまだこれからな時代なのね。
現代なんてチョコレートといえばバレンタインの定番品で、それこそ十円駄菓子もあるのに。
バレンタインチョコっていつから当たり前になったの、と思い至って気づく。

今って確か。
慌てて鴎外さんの新聞の日付を確かめる。

二月。
二月の、しかも十四日。

「…っバレンタイン!」

うっかりしてた。

カレンダーらしいカレンダーもないから、月日の感覚がいまいちなかったけど。

いきなりですが今日バレンタインです!

「ばれん、たいん…?」

首を傾げてる春草さんに説明するよりも先に、新聞広告を改めて確認する。

「鴎外さん、そのチョコレート、どこに行けば買えますか?」

「これかい?両国の米津風月堂とあるが…食べたいのかい?」

「両国ですね。私、今日行ってみます」

春草さんはチョコレート食べたことないみたいだし。
日頃お世話になりすぎなくらいお世話になってるお二人には、感謝を込めてお渡ししたい!

息巻いて両拳を握り、すっくと立ち上がる私に冷静な春草さんの声がかかる。

「行くって、場所わかるの?」

「車夫さんに聞きます、大丈夫ですよ」

「お金持ってるの?」

「鴎外さんから頂いたお小遣いがありますから」

好きにしていい、と言われて頂いたお金だけれど居候身分の私。
大事にしなくちゃと思って貯めてあるから、ある程度の持ち合わせはある。
使うのならこういう時だよね。

大丈夫、と微笑んだら。
首をふって春草さんが真顔で言う。

「箱入り娘も結構だけど、もう少し常識を、」

「良いではないか、春草。私もその貯古齢糖を味わってみたくなった。芽衣、これで私の分も頼んでいいかい?」

鴎外さんが上等なお財布から、銀色の硬貨を二枚取り出して私の手に乗せる。

いつもお使いのお買い物で見るお金と違う。初めて見る硬貨は、どこか五百円玉に似ていた。
手の平の硬貨を物珍しく眺める私を余所に、春草さんが咎めるような声で言う。

「鴎外さん、甘やかすのも大概にして下さい。彼女のためになりませんよ」

「婚約者が望むことは、叶えてやりたいのが男というものだろう。彼女の望みが叶うのなら安いものだ」

「ですが、こんな大金持たせるなんて…危ないとは思わないのですか?」

これって大金…なの?
いまいち明治のお金の価値観がわからない私には、見ただけじゃ判断できない。

「大丈夫だ、春草。君が一緒に行ってやればいい」

「どうして俺が。鴎外さん自ら婚約者殿とご一緒されればいいのではありませんか」

「無論できることならそうしたいのだが、生憎これから仕事でね。君になら私も安心して任せられるのだが…」

ふぅ、と悩ましげなため息をひとつこぼす鴎外さん。
ぐ、と詰まる春草さん。
続く沈黙。

「あの、私なら一人でも大丈夫ですよ?」

明るいうちだし移動さえなんとかなれば。
何がそんなに問題なのかと二人を見やれば。

諦めたように春草さんが言った。


「わかりました…俺が一緒に行きます」



かくして、二人で両国まで出掛けることになりました。





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