dream2


□Bonbon au chocolat
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バレンタインから数日後の週末。
午前10時、5分前。

今日は1日オフだからと聞いてやってきたのは、音二郎さんの暮らすアパート。

階段を上る前に、アパート前に止まっていた自動車の窓ガラスに自分を映して、もう一度確認する。

今日はいつもより気合を入れて、髪型も毛先を少し巻いてワンポイントに飾りつきのピンを留め、可愛く編みこんだ。
くるんとカールした睫毛にマスカラを少しのせて、唇には薄く色づく淡いピンクのグロス。お化粧は、あくまでも薄化粧。
お気に入りのコートにふんわりした膝丈ワンピースと、ブーツ。

そうして乱れがないのを最終確認して、いざ、階段へ。

うきうきする気持ちを隠せずに軽い足取りで上る階段は、いつもより楽しげな靴音を響かせた。

やっと渡せる!

それが楽しみで。






Bonbon au chocolat
for 音二郎さん







約束の時間丁度にインターホンを鳴らすと、程なくして開くドア。

「よお、いらっしゃい」

すげえな、時間ぴったりじゃねえか。
言いながら音二郎さんは微笑んでお迎えしてくれる。

「おはようございます、お邪魔します」

えへへ、と笑い返しながら、ドアを閉めてブーツを脱ごうとして。
はたと、いつもは玄関にないものが目に入る。

いや目に入るって言うか。これは。

けしてそう広くはない玄関から続く廊下に、結構な大きさのダンボール箱が3箱、無造作に重ねて置かれている。
まるで引越し準備でもしているかのようなサイズの箱、箱、箱。

なんだろう。この間はなかったけど。

「とりあえず、コーヒーでいいか?」

「あ、はい、ありがとうございます…」

特に気にした風でもなくいつもどおりの音二郎さんの後を追って、正体不明のダンボールに気を取られつつも、リビングへ向かった。


座って待っててくれ、と通されたリビングは外気で冷えた身体にちょうどいい温度。
包まれるような暖かさにほっとする。

もともと物の少ないお部屋だけど、昨日までの忙しさを物語るように使い込んだ台本にパンフレット、折込作業をしたのだろう各種チラシがあちこちに点在している混沌とした状態だった。
それでもテーブル周りとソファの上だけはきちんと片付いていて、私が来るから急いで片付けてくれたのかな、と思うとそれだけで嬉しくなる。

いつものようにクローゼットからハンガーをお借りしてコートを掛けて、先にソファに腰を下ろす。
手伝おうかな、と思ったところで音二郎さんがマグカップを手にキッチンから出てきた。

「ほい、ミルク砂糖入りな」

「ありがとうございます」

音二郎さんはブラック、私はカフェオレ。
受け取って早速、一口。
丁度いい甘さのいつもの味がした。

「悪かったな、休みの日に朝からで」

私の隣に腰掛けながら音二郎さんが言う。

「いえ、全然。音二郎さんこそ、せっかくのお休みに…舞台終わったばかりでお疲れじゃないですか?」

くたくたになった表紙の台本を横目に見る。

「んー、まあなぁ…でもま、疲れたっつうよりやりきったって満足感のが強ぇかな。なんたって全公演満員御礼、千客万来!で、つい張り切っちまったしなぁ」

疲れを残しながらも充足感に満たされてる、そんな顔。

「満員御礼当然ですよー、今回も面白かったですもん!」

毎公演ごとに音二郎さんが最前列の特等席を用意してくれるから、もうすっかり演劇ファンになってしまった私。

同じ舞台でも、とっさに入るアドリブの違いや役者さんたちのノリ、その日の雰囲気で少しづつ変わる生のお芝居。
特に好きになってからは、初日公演と千秋楽での変化を楽しむのが私の鑑賞スタイルになっていた。

「そっか。お前が観て面白かったってなら、俺としても大成功だ」

そう言って、にかっと笑ってくれる。

千両役者の飾り気のない笑顔に、こちらの頬も勝手に緩んでしまう。


この現代でも舞台俳優として生きる音二郎さんは、古典、現代劇、悲劇、喜劇、ミュージカル、得意の女形まで演じる。

その幅広い演技で人々を魅了する彼は、今や演劇界の寵児として注目の的だった。

所属事務所には出演オファーが次々と舞い込み、仕事の依頼は途切れることなく入るのに、TVにも映画にも興味を示さず、舞台演劇にこだわる今時珍しい硬派な若手役者というのが、音二郎さんの人気を更に不動のものにした。

高まる評価と比例して女性人気にも火がついて、とある雑誌の特集記事、恋人にしたい男性芸能人ランキングに上位ランクインしたのはつい先日のことだ。

無理もないと思う。

だって音二郎さんは誰より男前だもの。

そんな世の女性達が見惚れる男前芸能人が。

自分の…恋人で。

お休みの日にこうして二人がけのソファに座り、体温が伝わるくらい近くで、マグカップを片手にほっこりした時間を過ごしているなんて。

少し前の自分には絶対に絶対に、思いもよらない未来だろう。
どこの誰が考えてもありえないことこの上ない事実。

私が、連れてきてしまったんだ…よね。
100年前から、現代へ。

よくよく考えると、よりいっそうよくわからなくなる、嘘のような現実。


すぐ隣には、端正な横顔。

ふと目が合えばいつでも。

「ん?どうした?」

愛しげな視線が私に向かって真っ直ぐに返ってくる。

それがたまらなく、嬉しくて。

「いえ、なんでもない、です…」

こんなに幸せでいいのかなって、思う。
自分には有り余る程の幸せで、胸が一杯。

ついデレデレとだらしなく緩む頬を、マグカップで隠しながら。

こんな風に募る愛しさをきちんと伝えるためにあるのがバレンタインデーじゃなかったかと思い出す。

そうだった、チョコレート。
当日は過ぎてしまったけれど、それでも。

紙手提げの中のチョコレートを渡さなきゃと
気持ちを新たにした私に、何の気なしに音二郎さんが口を開く。

「なあ、お前さ。バレンタインデーって知ってるか?」

なんともいいタイミングな発言。
今ならさっと渡せそう!

「はい、もちろん!2月14日ですよね!」

「あ、やっぱり知ってんのな…なあ、バレンタインデーって何なんだ?」



え、あれ。
もしかして。音二郎さん。

バレンタインデーを、知らない?




「ええっと。その2月のイベントというか、ですね…」

「イベントねぇ…」

なんだか難しそうな顔で音二郎さんが言う。

「何か、あったんですか?」

「ここんとこずっと事務所に届いてんだ、大量に」

チョコレートが。

いかにも参った、という口調で音二郎さんが続ける。

「ファンレターやら花束やらは今までもあったんだが。どうしてか最近すげぇ量のチョコレートが届くようになってさ」

ああ、そうか。
バレンタインデーって、明治にはまだなかったのかな。

「マネージャーに聞いたら、そりゃあバレンタインですからね、チョコレート一色でも当然ですよー!っつって。今朝いきなり家に3箱も持ってきて、ろくな説明もしねぇで勝手に置いて帰りやがった」

どうも、事務所に届いたチョコレートは安全確認した上で今日、初めて音二郎さんの元に届いたらしい。

それを聞いて、さっきの光景に思い至る。

「あ、だから、玄関にダンボール…」

「ああ、あれ全部チョコレートだってよ」

若干のうんざり感がにじむ声。


まあ、それは、そうだよね。

芸能人なんだもん。
皆贈るよね。チョコレート。

有名事務所のアイドルともなれば、トラックで山盛りのチョコレートが届くって聞いたことがある。

そうか、それは…しまった。
正直頭になかった。
完全に失念してた。

私も用意してしまったんだけど。
チョコレート。


「あの、音二郎さん。見てみても、いいですか?」

「あ?チョコレートか?別に構わねぇが…」


二人で玄関に向かって、音二郎さんがダンボールを1箱開けて見せてくれる。

折り重なるようにして納まった、色とりどりの包装紙に包まれたチョコレートの数々。
超有名メーカーの高級チョコレートから、いかにもバレンタイン用のハート型パッケージのもの、中にはブランデーボトルなんかも入っている。
色とりどり、多種多様、形様々。

でもきっと、込められた想いは同じなんだろう。

自分を知って欲しくて。
どんな形であれ、好意を届けたくて。

こんなにも人々に愛される音二郎さんを誇りに思いながらも、複雑な思いが胸を占める。

なんだか、とんでもなく渡しづらくなっちゃったなぁ。

ぐるぐる回りだす考えを隠すように笑う。


「すごいですね、音二郎さん」

「そおかぁ?鏡花ちゃんじゃあるまいし、俺が甘いもんもらってもなぁ…こんなにいらねぇし」


良かったら、お前の好きなだけ持って帰っていいぞ。


ああ…それを言われては。もう。
今更私もチョコレートを持ってきましたなんてどうやっても、言えっこないよ。


「いえ、さすがにこれは、ちょっと…」

「なぁに遠慮してんだよ?」

「いえ、遠慮でなくて…」

「イベントなんだろ?よくわかんねーけど、チョコレート配る。」

「あの、そういうイベントでは…」

「…?違うのか?」

「違い、ますね?」

「じゃあ、何なんだよ?」



バレンタイン、て?



さっぱりわかんねぇ、と首を傾げる音二郎さんを前に。



今初めて気が付いた。

バレンタインというものは。

お互いの相互理解があって初めて成り立つもの、なんですね。






リビングに戻って再びソファに腰を下ろして。
私は真実を伝えるべく、音二郎さんに説明した。

バレンタインデーというのは、現代日本では主に女性から男性に、大切な人や愛する人へ感謝や親愛を伝える日だということ。

女の子にとっては、想い人に気持ちを告げるのに背中を押される日であり、それにはチョコレートが必須アイテムであり。

多分、音二郎さん宛てに大量のチョコレートが届いたのは、そういうことです。と伝えて。


「…なので、ファンの方々の愛情がこもったチョコレートを私がいただくのはちょっと…心苦しいです」

そう説明すれば、なるほど、と頷いてみせる音二郎さん。

「聞いてやっと合点がいったぜ。どうりでチョコレートばっかりなわけだな、そりゃ」

さすがにダンボール3箱分はどうにも困りもんだが、しょうがねえなと苦笑する。

芸能人だって、お客様商売。
それがわからない音二郎さんじゃない。

想いと、チョコレート。
無駄にするわけにもいかないけれど、確かにダンボール3箱分…いや、それ以上だよね、はどうしたらいいんだろう。

「全部は…食べられませんしね」

「んー、まあ、対処法は後で考えるとして、だ」

そこで一度、居住まいを正して。
ソファの上で、正座して私に正面を向け、音二郎さんは言う。


「お前はくれねぇの?俺に」

「え」

「だから…チョコレート」

「…でも、あんなにチョコレートがあるのに、」

「それとこれとは別だ」

さっきは、いらねぇとか言ったけど。
お前のは別だろ。

真剣そのものの声で、音二郎さんは言う。


「俺は、芽衣のチョコレートが食いたい」

持ってきてるんだろ?と聞かれて。

真剣に。必死に、正座までしてそう言ってくれる音二郎さんが嬉しくて。

思わずちょっとだけ、涙腺が緩む。

だけど、今は笑顔で答えるところだよね。


「はい、もちろん!」


答えて、愛しい恋人に抱きついた。






−音二郎さんに、と選んだのは、ボンボンショコラ。

色んな種類の日本酒が中に入っていて。
見つけた瞬間、音二郎さんにぴったりだと思った。
贈り物にあったブランド物と比べると正直、かなりのお手頃価格だけれど。

「そんなに良いものじゃないんですけど、」

「まだ言ってやがんのか。ったく、いいんだよ、俺がお前のチョコレートがいいって言ってんだ」

言いながら、箱を開ける。
中には、お酒のビンを模した形の一口大のチョコレート。大吟醸、と刻印されている。

音二郎さんはひとつ摘むと、ぱくっと口に入れる。

「…どうですか?」

「へえ、結構いける。うまいな、これ」

「良かった!」

用意してきて、本当に良かった。
ただただ嬉しくてにこにこしていると、音二郎さんは。

「それで、今日は粧し込んでたのか」

「あ、やっと気付きました?」

「ばーか、最初から気付いてんだよ、俺は。俺に会うのが久しぶりだから、気合入れてんのかと思ってたんだが…そういうことか」

気付いていてくれたことが更に嬉しくて、余計に頬が緩む。

「お前は?一緒に食わねぇの?」

今度は梅酒味を摘み上げて音二郎さんが聞く。

「一応、少量ですけどお酒入ってますし。私は遠慮しておきます」

「そっか」

摘んだチョコレートを頬張って。
にやり、笑う音二郎さん。

それを疑問に思う間もなく。

強引に私を抱き寄せると、そのまま口付ける。

驚いてただ瞬きをくりかえす私に。
一瞬だけ目を合わせてから、その瞼を閉じた。


「…ぅんっ…」


嵐のような口付けは。

チョコレートと、梅酒の香り。

翻弄されているうちに、いつの間にかチョコレートが口移しされていて。

とろり、溶けていくチョコレート。

意外と強いお酒の味にくらっとする。



ようやっと唇を離した、音二郎さんは。

自身の唇に残ったチョコレートを親指で拭って、その舌で舐め取って。




「ごちそうさん、芽衣」




艶やかな微笑でそう言った。





「もう…酔っ払ったらどうするんですか」

「どうするも何も。なぁ?」







小悪魔の微笑みって、こういう顔をいうのだろうなと。


お酒に酔ってるのか。

音二郎さんに酔ってるのか。





くらくらする頭で、ぼんやり思った。






Happy
Valentine's
Day!




2014.2.14






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