醒者水盃
□少しだけ、くやんでいる。
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雨が降りしきる空の下、交差点の向こう側まで来ていた総悟の顔を見るなり、銀時は垂直に崩れ落ちた。
耳に入ってくる微かな水音を聞くともなしに聞いていた。
そして小声でかわされている会話。誰だろうか聞き覚えのある声と、相槌ばかりの話し声を銀時はぼんやりと聞く。
まだ。やはり。今でも。深い傷。ショック。あんなこと。
あんなこと?
そう、まだ苦手なのかい。
来てくれなくなってね。気になっていたんだ。
やはり治っていないままなのか。
今でも、よくあるのかい。
彼の心の中で深い傷になってしまっているんだよ。
あの人の命を奪ったと思い込んでしまっている。
他人でもショックの大きな光景だろうにね。
あんなことが、目の前で起きたのだから。
あんなこと。
どんな。
どんな光景?
どんなことが起こった?
あんなこと。
どんな?
……ああ、……ああ、覚えている。覚えている。
ぜんぶ。
コマ送りみたいに全部思い出せる。
雨の日の駅前。
激しく降り注ぐ雨粒が跳ねて白く煙る横断歩道に、歩行者用信号機の点滅が写り込んでいた。銀時が慌て走り込んだ矢先のことだった。
クラクションと急ブレーキのけたたましい音のどちらが先に聞こえたのかはわからない。でもたぶん同時。
横断歩道を渡ろうとした銀時の目の前を、白い車が猛スピードで対向車線へと斜めに飛び出した。斜めに。
青信号で横断歩道を渡ろうとしていた歩行者の、赤信号で次の青を待っている人々のその中に、斜めに。
そして薙ぎ倒されていく人々の、そしてあの人の、そして見慣れた傘が、赤く濡れてへしゃげてしまっていた、その歪んだ形。
コマ送りみたいに全部思い出せる。
夢でも何度も繰り返し見たせいで、もう正確さに自信はないけれど、はっきりと。
高杉と桂に強引に連れられ、通院を始めた頃だったか。
描けます、描いた方がいいですか?
なんとなく口にしたら後頭部を強くはたかれた。
驚いて振り向くと高杉はさっと手を背中に隠し、桂はぐっと腕組みを組直すところだった。
二人してそっぽを向いて知らないふりをしていた横顔が怒っているのに、ちょっと笑った。
笑ったら、二人にぎょっと目を丸くされたから、たぶんあの頃はそういうことが自然にできていなかったのだろうと、今になって思う。
あの雨の日からしばらくのことは記憶にない。
周囲の人々の自分への接し方からすると、きっとそうとう酷いことになっていたのだろうけれど記憶にないので想像でしかない。
後々に、どうなっていたのか知らないはずはない高杉に尋ねれば「冬眠中のクマみてェに丸まって眠ってた」と解釈の難しい返答をされた。
桂にも遠回しに尋ねれば「知っているか銀時、冬眠中の動物というのはだな、鼓動がびっくりするぐらい遅くなるんだぞ」とこちらもこちらで謎な言い回しの返答だった。
なんだかんだ言ってつき合いが長いだけのことはある。わけがわからないながらに似ている。
どうやら冬眠していたらしい。
そこまでで解釈をあきらめた。
あの時の高杉と桂の表情から察するに、あいつらはあきらめさせたかったのだろうと思う。
だからきっと、とても酷いことになっていたにちがいない。
だけど、それを「へこたれてちゃいけませんよ」と叱ってくれる人はいなくなっていた。
亡くしてしまった。
もういない。
殺してしまったからだ。
なのに自分は“可哀相な子ども”なのだった。
可哀想なのは、可哀想なのは、俺じゃない、なのに。
ああ、あんなことね。
銀時の茫洋としていた思考の中で、過去と現実がはっきりした。
雨の日、総悟と待ち合わせをしていて、ほんの少し遅れてやってきた彼を降り続く淫雨の向こうに見つけた。
ちょうどその時、どの車からだかクラクションが鳴り響いた。
暗転。
急に視界が狭まり、意識ごと引き上げられるような感覚の直後、感覚が飛んだ体だけが重力の力に逆らわず、地面へと真っ直ぐに崩れ落ちていったのはかろうじてわかっていた。