醒者水盃

□なにやら胸騒ぎしますな。
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 二年前のことだ、銀時は小さな一軒家で目覚めると“秋”になっていた。
 畳の上でぽかりと目覚めた時、年季が入って色あせたカーテンが風に揺れていた。生ぬるさが抜けた風に頬を撫でられて、もうすぐ秋だと思った。
 だから自分は目覚めたのだろうと、まだ眠気が残る頭で脈絡なく思った。
 銀時は、“秋”になっていた。
 銀時は自分が季節のひとつ“秋”になったことをなんの戸惑いもなく受け入れた。自分が、なにをしなければいけないのか課せられた役目もわかっていた。
 わからないのは、二年よりも前のこと。小さな一軒家で目覚める前のこと。“人”だった時のことだ。
 だから、自分が何者で(秋だ)、何をしなければならないのか(秋を運ぶ)、それがはっきりしていることは幸いだった。なにせアイデンティティを支える過去をまるごと無くしてしまっているのだ。
 けれど不思議に不安はなく、思い出さなければという焦燥感も無いことは我ながら不思議なぐらいだった。
 後に出会った“季節”たちは皆「そういうものだ」と言ったので、これは銀時だけに限ったことではないのだろう。
 しかし目覚めたばかりの頃の銀時はそういったことを知らなかった。
 だから、もしかしたら無意識が思い出したくないと封じ込めてしまうような過去なのかもしれないとも思っていた。その記憶を無くしてしまったこと、過去を捨てたことで楽になったのかもしれないと。
 そう言って、不安がないことを気にした銀時は「その無駄にアンニュイなとこ“秋”にぴったりだ、天職だと思うよ」と感心だか揶揄だか呆れだかよくわからない物言いで両断された。
 人の不安をばっさりやってくれたのは、銀時が初めて出会った“季節”、なにを考えているのかよくわからない笑顔の“春”だった。


 カラカラと引き戸を閉めて鍵をかける。肩にかけたカバンのヒモを負いなおし、銀時はこの町でのわが家を眺める。
 目覚めた時にいた家で、都市開発に取り残されたのかと思うようなこじんまりとした平屋家屋だ。木造建築というわけではないけれど火事になれば全焼間違いなしだろうと思うような古びた家。
 この辺りが秋の間しかいないから、住んでいるのは年間で正味三ヶ月もないだろう。
 からりと良く晴れた日に布団も畳も干したし、押し入れにも風を通した。しっかりと大掃除をして傷んでしまう食品も始末した。冷蔵庫の中は空っぽで、電化製品は根こそぎコンセントを抜いてブレーカーも落とした。盗まれて困るような物はないが、なにせ不審火が怖い。
 あまり家事向きでないし几帳面でもない銀時だが、家を移る時だけはさすがに長く空けるのだからしっかりと後始末をして出ている。
 でもたぶん来年の晩夏に戻ってくれば、とんでもない発見をするのだろう。
 たとえば食うなり捨てるなり処分し忘れたじゃがいもが、皮のみを残した抜け殻のようになっていたり。(ねずみに食われた)
 家を出る前の昼飯にしようと冷蔵庫に突っ込んでいた鍋焼きうどんセットが、コンセントを抜かれてただの箱になっていた冷蔵庫の中で干からびシオッシオになっていたり。(カビまみれになっていないだけマシ)
 まあ事故や事件に発展しない程度のポカならば許容範囲だ。
 玄関の前で指を折りながら新聞も止めたし、水道とかも止めたし、電話会社にも連絡したしと確認していると、そっと遠慮がちな気配を感じた。
 銀時が振り向くと、ひとりの少年が立っている。
 少年といっても、もう青年といってもいい歳に見える。けれど少し小柄で、白い肌に淡い茶色の髪が流れる頭は丸く小さい。ジャンパーに包まれた狭い肩など、まだ薄い感じがする体つきが彼を少年にしていた。

 
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