古酒震天

□手首を脱臼したそうだね
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「アベル君、一昨日、手首を脱臼したそうだね」
”教授”ことウィリアムは、入室してきたアベルの顔を見るなり挨拶を抜かして言った。
 ぐ、と顎を引いたアベルの表情は憮然としたものだ。手にしている書類で逆の手を覆う。隠したからといってどうなるわけでもないのだが、ある種の後ろめたさやら羞恥やらがそうさせる。アルビオン紳士のポーカーフェイスが、なにを思って久しぶりに会う同僚へ挨拶なしに指摘をしてきたのか読ませないからでもある。
「……どーしてさっき帰還したばかりの教授がご存じなんですか」
「うん。ケイトくんがね」
 なるほど、とアベルは結んだ唇をほどく。
「病院に行った方がいいんじゃないのかい」
「それもケイトさんが?」
 苦笑をこぼすアベル。現在、任務でローマを離れている彼女は、昨日任地に飛び立つ直前「いってらっしゃい」と声をかけたアベルに「病院、かならず行ってくださいましね」と返し、やはりアベルに苦笑させた。
「私、こう見えても頑丈なんですけどねぇ」
「脱臼する前になら、たとえ気のせいほどでも説得力があったかもしれないね」
 パイプを持つ手に指された手首は、僧衣の袖にほとんど隠れてしまっているが未だ包帯を外せていない。
「しかも利き手だ」
「そうですけど。今はちょっと熱をもってますけど。でもでも抜けちゃったのは一昨日のことですからね、明日には引くでしょうから大丈夫。今だって不自由はありませんしね」
「レントゲンぐらいなら僕が診てあげられるけれど、なんだね、病院が嫌なのかね」
 けれどいつもの病院なら検査も簡単に済むし、君に不都合はないはずだが? と続けられて、くどくど弁解していたアベルは困ってしまう。理由なんて大したことのない些細なものなのだ。
「そういうわけじゃ。……ていうか教授、今日はやけに絡みますね。なんですか? ケイトさんに頼まれただけじゃないでしょう?」
「ミラノ公にも頼まれているよ」
 さらり、と返されてアベルはガクリとしゃがみこむ。手にしたままの書類でウィリアムから顔を隠して溜息をひとつ。いったいどこまで気づかれているのやら。カテリーナの頼み事は、ケイトとは別もののはずだ。
「トレスくんも、今は、ここにいるそうじゃないか」
 ぐ、とアベルは詰まる。低い位置から見上げるウィリアムは片頬で楽しげに笑んでいる。
「それってぜぇ〜んぶ筒抜けだってことですか?」
「うん、それはどうかな。なんでも戦闘中にバランスを崩した重量200キロのトレス君を片手一本で支えようとして手首が抜けたそうだね。その後トレス君に応急処置で接いでもらい通院するよう告げられたのに、なかなか君が実行しないものだから、昨日今日とトレス君が、君を追い回していると聞いているが、――これで全部かな?」
 よいしょ、とじじむさいかけ声で立ち上がったアベルは両手を上げて降参する。
「や、もうそのとおりです。トレスくんには、さんざん叱られちゃいました。『無茶なことをするな。卿のスペックでは俺の重量を支えることは到底不可能だ』てね。あ、脱臼だけで済んだのは不幸中の幸いだ、とか。他には武器を手放すなとかもあったかな。でも咄嗟に手が出ちゃったもんはしょーがないですよねー」

 あの無愛想な口調を真似たアベルは思い出してか眉を寄せる。

 
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