古酒震天

□ゴシップ
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 工藤新一は、偶然目の前で起こったひったくりの犯人を追いかけていた。


 ちょうど蘭の試合に応援に行った帰り道だった。
 応援にわざわざ大阪から駆けつけた遠山和葉と、応援兼彼女の付き添いとしてやってきていた服部平次も一緒だったのが、このひったくり犯たちの不運だろう。いや、部の仲間との打ち上げを抜けるわけにもいかず、会場に残してきた蘭が抜けていたことは幸運だったかもしれない。
 この辺りで隠れた名店のひとつと謳われている中華料理店での腹ごしらえを終え、出てきたばかりの彼ら三人の目の前で、その不運で幸運なひったくり犯二人組は女性からバッグを奪い逃走をはかろうとした。
 ミニバイクのタンデム、そしてノーヘルという、服部に言わせれば「三途の川ァ見たことあらへんヘタレ」たちは、グッドタイミングで出前から帰ってきた中華料理店の配達用バイクを拝借した“三途の川を見たことがある男”服部に200メートルほど伴走されたあげく蹴倒された。
 二人組はバイクを捨てて逃走しようとしたものの、一人は工藤のスライディング・タックルに転ばされたところを和葉がすかさず腕をねじ上げた。
 まさか彼女が追いついているとは思わず、いざ取り押さえようと振り返った工藤が目前の光景に呆気にとられていると、服部の怒鳴り声が聞こえた。倒れているバイクへと突き飛ばされた服部が体勢を崩した隙に、残る一人が逃げたのだ。
 地面を蹴った工藤の背中に『平次、アホンダラ待たんかい!アタシひとりでコレどないせぇゆうのっ!』と和葉の怒声が聞こえた。
 どうやら転がっているバイク二台と、犯人と、犯人を組み伏せている和葉をひとり残して、服部は工藤同様逃げた犯人を追おうとしたらしい。和葉の怒りはもっともだ。
『すまん。工藤頼む!』
 頼まれるまでもなく、工藤は駆け出していた。


 そこは閑静な住宅街で、そんなものが現れるはずがない場所だった。


 現役は遠のいていても工藤の脚力と持久力が、手軽に稼ごうとひったくりなどをする人間に劣るわけがない。諦め悪くあちこち角を曲がって走り続けた犯人の足取りは疲れきってへろへろになっている。
 あと百メートルも保たない、とその背を追う工藤は思ったが、100メートルをつき合う気なんぞはもちろん毛頭ない。20メートル以内に決着をつけてやる、と足を速め背後へ肉迫し、もつれ気味の膝裏にラストショットとばかりに黄金の右足を叩き込んだ。
「っしゃぁ、確保ぉぉ〜」
 俯せに押さえ込んだ犯人は疲労困憊なのか、ぜいぜいとノドを鳴らしてぐったりとのびたまま抵抗の素振りもない。だからといって油断するわけにもいかず、同じく肩で呼吸を繰り返す工藤は犯人の両腕を背中にねじ上げて押さえている。
「てめ、よけいな根性出してんじゃねぇよ。喰ったばっかのメシが出るかと思ったじゃねーか」
 あ〜疲れたぁ〜、と肺を空にする大きな溜息。
 さて。
 背中で交差させた手首を膝で押さえ込み、工藤は110番通報しようと尻に手をまわす。が、無い。
「まぁたやったか、オレ?」
 ズボンのポケットに入っているはずの携帯電話が無かった。あれだけ走り回ったのだから、どこかで落としたか。さもなくば、初めのタックルの時に落としたかだろう。
 ともかくどこで落としたにしろ、これでは通報ができない。さて。
「オメー、携帯は?」
「持ってませんっ」
 下敷きにしているひったくり犯に尋ねてみた。返った答えに唸る。押さえ込んだ上からボディチェックをしてみても出てこない。嘘はついていないようだ。
 あらためて辺りを見回して見てもやはり途中で落としたのだろう、自分の携帯電話らしき物は落ちていないし、近ごろめっきり数を減らした公衆電話も見当たらない。
「んだよオメー使えねぇなぁ」
 落とした本人が言うことではない。
 食事を終えて店を出た時は薄暗い程度だったのに、すっかり宵闇に沈んだ住宅街は静かで、どこかから漏れ聞こえるテレビの音声や甘ったるい猫の声が「ぅにゃぁあ〜ん」と聞こえてくる。
 街灯の白々とした明かりの下で、工藤はまったく面倒くせぇったらと溜息を再度吐く。こうなれば大声でも出すしかないではないか。
 こういう状況は珍しいよな、と妙に感慨深い気分になる。こうやって取り押さえていると、たいがいは誰かが(主に警察、時には服部だったりが)追いついてくるものなのだ。
 けれど今回は犯人が人通りが少ない場所ばかりをやたらと走り回ってくれたので、服部も追跡できないだろう。しかもまたこの場所がご丁寧に裏道で、見える限り道に面して壁しかない。面倒くさい。
 これはひとつ絹を裂くような悲鳴でも、

「絹を裂くような悲鳴でも上げてみる?」
 
 
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