古酒震天

□not Azure Blue
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 月を求めて、体重をかけ厚い扉を押し開いた。
 驚く。
 眩しかった。重い腕を上げて眼を守る。

 どうなってんだ?

 刹那サーチライトかと思った光は、外気に満ちていた。
「夜が、…あけたのか」
 見上げた空は見事な晴天で雲ひとつない。陽射しはまだ浅く穏やかだ。まだ空色とは呼べない、白っぽく薄青い天蓋が見晴るかす全てを覆っている。
 爽やかなばかりの澄んだ空気は、夜が明けたばかりだからか。…朝、朝か。

 白い怪盗は、月下の奇術師は、呆気にとられた。

 白い、と形容するのがはばかられるほど全身は汚れていたけれど。シルクハットもマントも無くし、赤いネクタイも仕掛けに使って回収不能。あの月天の寵児の徴は、左目の片眼鏡にのみ窺うことができた。

「だ、ぇえ!?」
 眩しさに頭の奥がじんと痺れたように疼く、目眩がする。
「だぁめだろ、お陽さまの下に怪盗なんて。ぅわもうテンションが下がるっつーかヤなこと思い出すつーか…駄目だろ、オイ」
 ぶつぶつとごちながら壁づたいにのろのろ日陰に向かう。あちこち壊れかけの体に浅くても直射日光はつらかった。

 朝だなんて、本当にいつの間に。何度か時刻を確かめた時は、まだ深夜と呼べる頃だったのに。――いつの間に。
 窓ひとつ無い、閉鎖された地下施設の中、地下だというのにどこからこれだけ湧いて出るのかという人数を相手に暴れ倒していたので、時間の経過がわからなくなっていたようだ。体内時計の正確さに自信はあるが、その報せは自身へと届かなかったのか。
 あまりにも夢中で、没頭して、我を失っていた。

 悲憤の中で、常には心底の暗流に沈めている貌が現出した。
 腹の奥底から突き上がってくる凍えた憤りが、常には明朗快活な顔の下に眠らせ沈めているそれを揺さぶり起こした。闇黒の亀裂の縁に指をかけ、ずるりと現れたそれの名は、復讐者と言った。

 父親を殺した奴等をぶっつぶすことに、私憤、義憤の境など無い。
 ただ正義でないことだけは確かなことだった。人々を、親しい人を欺いて罪悪を重ねている自分が正しいだなんて到底思えない。――自らが復讐者であることは端から承知していた。
 なのに。
 あんな酷烈な感情が自分の中にあったのか。
 ぶっつぶすことと、殺すことは同義ではない。
 けれど、激情に我を忘れた自分には区別がついていなかった。
 止めることと、殺すことは同義ではない。
 あの時思ったのは「煩い」だった。目の前で喋り動く、人の形をした醜悪なものを黙らせたくてたまらなかった。
 一瞬の隙をつき、向けた銃のフロント・サイトは鳴き声を発し続ける卑小な生き物の喉を正面に捉えた。トリガーを引けば、これは黙る。煩くなくなる。二度と。

 あのままトリガーを引いていれば、そうなるはずだった。

 そうならなかったのは、とても些細なきっかけだった。それは笑ってしまうぐらいの。
 心底から噴き上がる激情を払ったのは――

 やっとのことで建物の角に入ると陽射しが遮られた。は、と息をつく。
 地階から、今出てきた出口への通路はトラップを仕掛け天井を落としてきたから使えない。他の経路を使うにしても、追っ手が来るまで僅かばかりの時間ができただろう。ほんの僅かでしかないだろうが、それだけでも足りる。
 どうしても確認したいことがあったのだ。
 壁に背を預け、ジャケットの内ポケットを探る。億劫そうな仕草で取り出したのは、メタリックホワイトの携帯電話。

 指をかけたトリガーを、怪盗は引いた。けれどカードのエッジは奴の喉笛を裂くことなく耳を裂くにとどまった。――命は、奪わなかった。
 完全に捉えていた標的から銃口を逸らすだけの小さな動作ですら、すでに射撃動作に入っていた腕に無茶過ぎて、右腕の筋が攣るかと思った。咄嗟のことで、どこを狙ったわけでもないカードが奴の目玉をスライスしなかったのも、首筋を裂かなかったのも偶然だ。
 そしてトリガーを引く寸前に、胸元の携帯電話が着信を報せるバイブレータを震わせたことも偶然だろう。
 けれど文字通り胸を震わせた振動は、落雷を思わせる衝撃で白い復讐者を撃った。
 あの瞬間、怪盗は我に返った。

 二つ折りの携帯電話のサブディスプレイに視線を落とす。着信を告げる点滅、そして発信者の名前が表示されていた。


『探偵ボーズ』


 怪盗は笑った。
 

end.
 
 

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