幸福論


□sping
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数時間後、景吾と数人の使用人さん達が手伝ってくれて、ようやく引越しが終わった。

「せまくねえのかよ、これ」

「もっと狭くても良かったんだけどね」

これから住む部屋は3LDKの超高級マンションだ。

個人的には1Kのアパートでも良かったのだが、父と景吾が許してくれるはずもなかった。

「男は連れ込むんじゃねえぞ」

「はいはい」

「門限は6時だ」

「…早くない?」

「コンビニ弁当なんて食ったら承知しねえぞ」

実は私の1人暮らしを誰よりも反対したのは、他でもない景吾だった。

アメリカに留学していた時は、何人か使用人さん達もいたが今回は本当に私1人だ。

景吾は不安なのかもしれないが、私だってちっとも不安に感じていない訳じゃない。

「大丈夫だよ」

そんな景吾を安心させるように、そして自分に言い聞かせるように言えば、返って来たのは真剣な眼差しだった。

「お前の大丈夫はアテにならねえんだよ。それが自分の事だと、特にな」

「…そうかな」

スッと景吾の手が伸びてきて、私の髪を大きな手で撫でた。

昔から景吾は私の髪を撫でる癖がある。

何時からかそうされることで私も安心出来た。

「…親父もお袋も心配してる」

「…分かってる」

「いつでも戻ってこい」

どうして景吾も両親も、逃げ出した私を責めたりしないのだろう。

テニスで勝ち続けるたびに期待されるプレッシャーと、跡部の名の重さから、逃げ出してしまった私を。

本当の私を、なんて綺麗事言って、本当はただ、怖かっただけなのに。

お前は弱いと、責められればいっそのこと楽なのに。

「ったく、言った傍から思い詰めてんじゃねえよ」

「…ごめん。景吾にも迷惑掛けっぱなしだね」

「言っておくが、俺はお前に頼られる事が迷惑だと思った事は一度もねえ」

「……ありがとう」

「俺はお前が幸せならそれでいい」

「ふふ、何それ」

「お前が笑ってりゃいい。泣き顔なんざ、似合わねんだよ」

「キザすぎるよ、景吾」

私の幸せ、それが何かはまだ分からない。

少し前なら、テニスをすることって胸張って言えたのに。

でも新しく探すのも悪くないかもしれない。




髪を撫でる手が優しくて、温かくて。

少しだけ涙が出た。


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