御馳走(戴物)

□《楽屋裏にて…続x6》
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「なんじゃあ、こりゃあああッ!!」
「いきなり耳許で怒鳴るンじゃないよッ」
怒鳴りたいのは妾も一緒なンだからねッ!、と目許を赤く染めたおぎんが聲を張り上げるが、又市の耳には全く届いていなかった。
やおら新たに渡された台本を引っ掴むと、脱兎の如く楽屋を飛び出す。


――何でだ…!何でこんな展開に変わったンだッ!!
念願のキスシーンが無くなったという事実は、又市を天国から地獄へ突き落とした。
だが又市が猛然と走り回っているのは、キスシーン削除の事だけではない。
確かに役者として演じているだけとはいえ、自分と同じ名を持つ又市の事を気に入っている。
だが話の展開上、何時かは百介との離別がある話があるだろうと判っていた。
百介は真昼の下を歩く堅気の人間。対して又市は夜に息を殺して進む闇の住民。
新雪のようにマッサラな百介に比べ、又市の両手は血に塗れ汚れている、と。
そんな初期設定を今更見直さなくとも、確りと又市は覚えている。

だからこの流れのまま二人は、何時か遠からず背を向け会うが如く、全く別の路を歩むだろうと判っていた。
しかし幾らそう設定されているとはいえ、百介が記憶喪失になり、凡てを忘れ生駒屋に戻ってメデタシメデタシ…だなんて、こんな展開は絶対に納得出来ねェ!、と又市は。
台本内容に抗議をしようと、監督や演出家を捜し回ったのだった。


「おゥ、又市じゃねェか」
バタバタと走り回る又市の背に、躊躇いもなく聲を掛けたのは、大物俳優、稲荷祇右衛門こと明石小右衛門だ。
「何でェ、オヤジさんかヨ」
こっちは忙しいンだ。のんびり挨拶なんてしてるヒマは無ェ。
おぎんなら俺達の楽屋に居ると思うゼ、と背を向けた又市に向けて、至極ゆったりとした聲が掛けられる。
「忙しねェなァ」
まァ先生ェがおぎんの婿に収まる、って話に変わっちまったから周章てるンだろうけどな、と。
とんでもない内容に又市は眼を剥く。
「なッ、なッ、何でェ、その話はッ!!」
「おンやァ、知らねェのかィ」
昨日渡された台本にそう書かれてあったゼ、と。
のほほん、と他人事のように言われてしまい、又市は目眩を感じる。
――なッ、何がどうなってるンだ。
皆の持っている台本の中身が違っている事実に、訳がわからなくなってきていた。
――いや待て、ちぃと落ち着け、俺。
一番初めに渡された台本には、自分と百介とのキスシーンが書かれてあり、一昨日おぎんが受け取った台本にはキスシーンが削除され、代わりに百介が記憶喪失になる話が差し換えられていた。
でもって今度は明石のオヤジさんが受け取った台本には、どんな展開かは判らないが、百介はおぎんの婿に収まっているらしい。
それが昨日、という話だ。
昨日、って事は…。
まさか……。
「あぁ又市さん、こちらに居たんですか」
「こりゃあ…えぇっと…どうも……」
呼ばれて振り向いた先には、見覚えはあるが名前は覚えていない、百介の兄。
軍八郎の役を演じていた青年が其処に立っていた。
この雰囲気はまさか、な〜と、ある予感を感じながら又市は、それでも表面上は何食わぬ顔で男の前に立つ。
「差し換える話が有るとかで、先程台本を渡されまして」
貴方の分も預かってきました、と差し出された。
「話の差し換え…ですかィ」
今度はどんな風に話が変わるンで、と疲れた様子で聴きながら台本を受け取った又市に、青年は一瞬だけ不思議そうな表情を浮かべたのだが。
それでも相手は、年下とはいえ自分より芸歴の長い先輩だという事を思い出し、手にした自分の台本を捲る事なく話はじめる。
「その…又市さん…いえ、御行から手酷い言葉を投げ付けられ、精神的に傷付いた百介が直ぐ様大川を越え逃げ、俺…いえ、私の処にやって来る、という話です」
「今度はソレかィ
いってェ何がどうなってやがるンだ、と頭を掻き毟る又市と、その背後で。
「何だ、それは。俺が受け取った台本と話がだいぶ違うぞ!」
新人なんぞ鼻先で吹き飛ばす事は何時でも出来るぞ、の勢いの有る大物俳優が、眉間に皺を寄せて唸る姿が其処にあった。


その頃――。
「役者達の反応はどれも楽しいねェ」
[ドラマ巷説百物語]の監督が数台のモニターを前に、ニヤニヤ嗤いを浮かべて見いっていた。
モニターは凡て隠しカメラ専用のものである。
「泣き・笑い・嘆き…中には再出演に純粋に喜んでいる人もいるようだねェ」
確か山岡軍八郎は、局のHPに再登場希望メールが幾つか届いていたよな。話の流れをみて、何処かに組み込んでみるか、と演出家は頭の中で話の流れを追う。
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