狩猟(巷説U)
□《黄泉帰り》
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百介が目を覚ましたら、闇の底に横たわっていた。
視覚が全く利かない。
真っ暗闇の中で一人寝かされている状態に、不安が込み上げてくる。
手を動かして回りを探ろうとしたら、堅い板に指が当たった。
床も回りも、手を少し上に延ばせば、そこも板で塞がれている。
『これは、一体?』
呟き、事実を受け止めきれず、百介の体が恐怖に震え出す。
『音、が……私は?!』
目が、見えない。耳が、聞こえない。
そして、何処か知らないが狭い場所に閉じ込められている。
『怖い、怖いっ……誰かっ』
助けて……。
闇の中でもがきながら、百介は音のない悲鳴を上げ続けた。
†††††††††
百介は、京橋にある蝋燭問屋・生駒屋の、若隠居である。
今現在、百介は生駒屋の離れではなく、全く知らない場所に連れて来られている。
何がどうなっているのか、全く百介には理解出来ていない。
最初は、大きな箱のような中に寝かされていたのだが、その内にガタガタ・ゴトゴトと気分が悪くなるくらい揺らされていたのを思い返せば、どうやら百介は箱ごと別の場所に移動されたらしい。
箱から引き出されたのが、此処なのだ。
誰にも何も説明されてない以上、百介には全く自分の置かれている状況が判らないまま。
こうして、膝を抱えて、壁に背を付けて蹲っているしかない。
目も耳も使えない以上、回りを手探りで確かめれば、百介は窓のない板で仕切られた一室に入れられているのだ、と判ったが。
此処から出ようとする都度、何人かの非常に強い力で捕まえられ、元の部屋に押し込められることの繰り返しで、もう抵抗する気力も尽きた。
水も食事も、匂いで用意されているのは判るが、何時どうやって運ばれているのかは判らない。
時間も判らないから、蹲っているしかない。
時折、何人かの手で体を押さえ付けられ、体を拭かれたり衣服を着替えさせられたりと、面倒を見て貰っているらしいが、触れてくる手が怖くて怖くて、百介はいつも悲鳴を上げて暴れて逃げようとする。
怖い、怖くて堪らない。
どうして、突然目が見えなくなったのか。どうして音が聞こえなくなったのか。
なにより、ここは、何処なのだろうか?
百介には、判らないことだらけだ。
疲れたら寝て、喉が渇けば小さな水桶に汲まれた水を掬い飲み、腹が減ったら手探りで膳の上に用意されているものを口に頬張る。
今の百介は、そうすることでしか、生きられない。
怖い、人としての生活が崩れていく。
怖い、生きている実感が現実から離れて行く。
誰かが側に近付く気配だけは、百介は早くから感知出来るようになっていた。
近付く振動、人の匂い(鬢付油だったり白粉であったりするが)で、大体は理解できるが。掛けられる声が聞こえず、相手の顔も見えない百介は、近付く気配で怯えてしまう。
『近寄らないで下さいっ』
自分の叫ぶ声すらも、百介の耳には聞こえないのだ。
『誰か、助けて……』
泣くのも、疲れ果てた。
百介には、ただ、部屋の角隅で小さく蹲って過ごす無意味な時間だけが経っていき。
闇の中に蹲り続けて、どれだけになるのか。
『……誰?』
密やかに、百介に近付く気配に、またかと身を堅く縮める。
間近にまで来た“誰か”は、百介の前で一端脚を止め、身を屈めたようだ。
『…誰?』
かさついた手が、静かに百介の頭を撫でる。
優しく、何度も。
百介に触れて来る手の中でも、この手だけは、そんなに恐怖を感じない。
むしろ、懐かしさや慕わしさが心から湧き上がる。
百介は、膝に付けていた頭を、僅かに持ち上げた。
やはり視界は闇に閉ざされている、が。
膝を抱えていた百介の手に、ゆっくりと誰かの渇いた指が触れて、戸惑いがちに手が重ねられる。
ビクリっと百介が身を引こうとすると、相手も動きを止めて、こちらの様子を注意深く窺っているようだ。
一体、誰なのだろう?
そろそろと、百介の手が引かれ、相手の息が掛かる顔の側に寄せられた。
触れる吐息。相手の唇に、百介の手の平が当てられた。
《…セ、ン、セ、イ、…》
一音ずつ区切ってハッキリと、百介の手の平に当てられた唇の形が、言葉を綴る。
先生、と。
もう片手が、百介の空いた手を、頭にと導いた。
触れる木綿の手触り、両耳の上に結ばれてあるのは、行者包み。
百介は、ブルブル震えながら、何度も何度も相手の顔を両手の指で辿る。
「先生…奴でやすよ…」
間違いない!!この御人は。
「又市さんっ又市さんっ」
堰を切ったように、ぶわっと涙が溢れて零れる。渇ききっていた筈の百介の心に、慈雨がもたらされる。
又市に縋り付き、泣きじゃくる百介の背を、宥めるように手が擦り続けてくれていた。
「落ち着きやしたか?」
「はい、又市さん、どうして此処に?」