狩猟(巷説U)

□《菖蒲の宴》
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 菖蒲が咲いている。
 百介は、朽ちかけた船に腰を降ろして、ぼんやりと左右に繁る菖蒲を見ていた。
 ゆらゆら、と水面を滑るように進む船。
 その回りで、紫、白、薄赤に黄色の花が、濃い緑の茎葉の上で、そよと風に僅かに揺れる。
 気が付いたら、百介は、こんな場所にいたのだ。
 これだけ見事な花菖蒲が揃った花園なら、江戸中で話題になって見物人も押し寄せるだろうが、百介以外に人の影もない。
 何処なんだろうか、ココは。
「私は……どうして……」
 戸惑いがちに口にした言葉に、船尾から答える声がした。
「百介様、よくいらしてくれやーした」
 振り返れば、船尾で竿を握る褌一丁姿に船頭笠を被った男が、百介に恭しく頭を下げる。
 これはどうも、と百介も頭を下げて挨拶すれば、船頭も慌ててまた頭を下げる。
 二人でペコペコと挨拶を繰り返していたが、船がガクンと大きく揺れて。
「おンやぁ」
 船頭は急いで、身の丈の倍はある長い竿を巧みに使い、船の舳先を流れの中心に戻した。
「あの、此処は?」
「百介様、ワシ等ァ河者にもヨぅして下さり、一同お礼を申したいとお誘いしやーした」
「はぁ」
「猫や烏が先んじやーしたが、なにワシ等も負けずに御礼をせねば」
 笠を外し、ニターと歯の抜けた口を開けた青黒い顔を見て、百介は『ああ』と笑みを向ける。
 いつも生駒屋近くの橋の下や河側にいる、こも被りの男だ。
 いつ頃から、その橋に住み着いているのか知らないが、百介は子供の頃、彼等が船を巧みに操り泳ぐのも上手なことを見て、すっかり“河童”だと思い込んだことがあった。
 当時は存命だった祖父に聞けば、彼等は河で水死体を引き揚げる等の河さらいをして生きる最下層の人間で、『人別外なのだ』との話だった。
 祖父はたいそう懐が深く知恵もあったので、幼い百介に身分の差異で生じる差別を、全く廃して教えてくれた。
 河者、と祖父は呼んでいたが、幼い百介にはちゃんと妖怪の“河童”に見えた。
 だから、胡瓜や茄子をあげたりして、河童のことを色々聴こうとしたのだが。
『ぼっちゃま、いけませんよっ』
 姉やに叱られ、側に行くことも止められてしまったが、それくらいで治まる百介ではない。
 手習いの行き帰りに、隠れて彼等を観察したりして。やがて、河者とは妖怪ではない、と百介も理解したが。
 密かな交流は、ちゃんと百介なりに続いていたりする。
「そうそう、アナタには船遊びの時に、とても御世話になりましたねぇ」
 百介は嬉しそうに、思い出を口にする。
 花見の船遊び、大川に繰り出した子供の頃の思い出。
 両親と祖父と、店の者達との楽しい休日に、河を沢山の船が行き交う中、百介達の船と他の酔客を乗せた船が衝突してしまったのだ。
 弾みで船縁から河に投げ出された子供の百介を、見事な潜りで救い出したのは、船頭達ではなく河者の彼達だった。
 跡継ぎを助けてくれた『有難い』と、生駒屋では沢山の酒や食べ物や銭を、礼として彼達に渡したのを百介は思い出した。
 以来、京橋の生駒屋では、彼等を表立って差別はしない。
 そうなってから何よりも、人目を気にせずに河者の彼等と言葉を交わせるようになったのが、百介には嬉しいことだったのだが。
「覚えてて下さいやーしたかっ。生駒屋の旦那様にも色々と礼の品を頂けて、ワシ等としては二重に有難いことでやーした」
 橋下から出て姿を見せるだけで苛められていた河者だったが、少なくとも京橋の側では、そんな目に遭うことは少なくなった、と彼は言う。
「そんな、それは私のしたことではありませんよ」
 それよりもアナタ方は私の命の恩人ではありませんか、と百介は本気で言っているのだが。
 いやいや、と首を横に振って男は否定する。
「いえいえ。百介様のお陰でやーす。あの後、ワシ等は河さらいだけでなくドブさらいでも日銭にありつけるようになりやーした。それに、いつも百介様はワシ等に銭をくれて、『調子はどうか』『病には掛かってないか』と気に掛けて下さって」
 第一、ワシ等の目が届く場所で、百介様を溺れさせる訳にゃイカンです。
 話をしながらも河者はトンッと竿を操り、船は菖蒲の繁る水路を曲がった。
「ささ、着きまして御座いやーす」
 回りを菖蒲に囲まれた広い河原に船を付けて、男はどうぞと百介を促す。
「おお、百介様じゃ、百介様じゃ」
「ようこそ、ヨゥいらせられやーしたなぁ」
 ヒョロヒョロと裸に近い姿のままの男達が、船に近付いて来た。
「さぁさぁ、こちらにどうぞ」
「蒼君も泥爺も、百介様に御挨拶したいと、待ち兼ねておりやーした」
 男も女子供も、身に付けるのはボロボロの布。
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