狩猟(巷説U)
□《なまらタマゲたなやァ》
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深々と、肺腑一杯に吸い込んだ息を、目一杯吐き出した。
呆れた。
心底、呆れ返った。
というよりも呆然自失、途方に暮れたと言い換えても良い位だ。
小股潜りの二つ名を持つ御行の又市は、目の前でのほほんと微笑む山岡百介のことを。
『どうしてくれようか』
内心頭を掻き毟りたくなる思いに、唸り声を上げていた。
山岡百介。
戯作者志望の旅好き・妖怪好き・物好きな男である。
普段は子供相手の考物を書いているような、なんとも極楽蜻蛉な暮らしをしているのだが。
その正体は、江戸は京橋で蝋燭問屋を営む大店の、経歴確かな若隠居なのである。
又市達のような日陰者が、親しく付き合って良い相手ではない。
ないのだが、御本人は貧富や貴賤に囚われぬ目を持ち、柔らかで暖かな心根の持ち主ときた。
しかも、しかも、だっ。
江戸で五本の指にも入ろうかという大店育ちをしてきた癖に、この若さと美貌(?)でありながら、色恋の道に関してはトコトン野暮。
すっかり枯れ果てているような、まっさらさなのである。
『どぅなってるンだぃ?』
さては衆道の気でも、と又市も一度は相手を勘繰ってみたものの、百介は稚児どころか遊女の類いであれ興味を示した事がない。
男としてヘノコ付けて産まれたからには、それも変だろうと『病気か』とも案じられたのだが。
とある切っ掛けで集まった小悪党一味と百介が、一緒に話をしていた時に。
とんでもない台詞を聞いてしまい、又市は己の耳を疑った。
「…先生ェ、今、一体ェ何とおっしゃいましたんで」
なんとか平静装った声で又市が確認を取れば、相手はごく自然に再度応えてくれた。
「ですから、男女が一つ御布団で枕を共にして」
「へい、それから?」
「一緒に寝ると、神仏がややを授けて下さるのですよね」
「………」
又市は、ごくりと息を飲んで、ニコニコと笑っている百介の顔を上目遣いに見詰めた。
おぎんや治平、あの徳次郎までもが身を乗り出す姿勢のまま、脂汗流して固まっている。
百介の説明は正しい。
正しいが、これは?この場合は?
「先生ェ…」
「はい?」
「ややは女の腹から出る、ってのは御存知ですよね」
「やだなぁ又市さん、そんな事は知ってますよ」
「男と女が、閨の中でやらかす事も?」
「え、まぁ、それは一応…」
頬を染め恥じらいながら頷く百介に、おぎんと徳次郎は安堵の息を吐き、固まった動作を再開した。
「やだよぅ先生ェ」
『妾ゃテッキリ』と、おぎんが誤魔化し笑いをすれば、徳次郎も乾いた笑いを浮かべた。
「質の悪ぃ冗談だねぇ」
治平が煙草盆を引き寄せ煙管を手に持ち、苦笑いを浮かべて口を開く。
「まぁ、石部金吉じゃあるめぇし、女ァ抱いたことがねぇ訳じゃあんめぇ」
先生も、生身の男だって訳かぃ。
そぅ軽口叩いて煙管の吸口を咥えようとした治平は、次の言葉が耳に飛び込み、ポロリと手から煙管を落としてしまった。
百介が軽い口調で爆弾を吐いたのだ。
「ありませんよ」
………………
なにぃっっ!!
又市達の絶叫が響き渡った。
「あ、いや、ほら。私も吉原に連れて行かれたことが前にありますが、花魁と一晩中語り明かしただけでして」
大体、裏を返すのは二度目三度目の登楼から、と教えられたものですから。
百介は、無邪気に応えていうが。
又市達はそれどころではない。
「先生ェ、じゃアその歳になっても」
男はおろか、女の柔肌も知らないってことですかぃ!
取り乱した様子で、膝を詰めて顔を寄せてくる又市に、『何故、こんなに慌てているのだろう』と、百介は不思議に思った。
「私は隠居の身ですからねぇ。能楽者でありながら、女性と付き合うなんて真似は、とてもとても」
判った、とてもよく理解してしまった。
つまり百介は、この若さで枯れている訳ではなく、実体験をしていないから判らない、のである。
知識はあっても情動までは沸かない、のだろう。
これでは色事に興味なんぞ有る訳がない!
『下ネタになってもニコニコしてるだけだから、からかい甲斐のない枯れた御仁と思ってたのに』
『まっさら童貞の、恋愛初心者たぁ気付かなかったい』
『この面と物腰で、童貞だァ?有り得ねーっ』
なるほど、と又市はガックリ肩が落ちた。
ついでにヤサグレたくなった。
百介に向けて、幾ら又市が『好いた』『惚れた』と言葉と態度で示して来ても、暖簾に腕押し、気があるのかないのか上手く躱され続けて来たと思ったら。