狩猟(巷説U)

□《生姜》
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 ザーザーと激しい雨音。
 小走りに急ぐ足音がパシャパシャと近付いて来て。
 ガラリ、と板戸が引き開けられた。
「ったく、酷い降りだよぅ」
 おぎんは差しても役に立たない傘を畳み、戸を閉め土間に入る。
 ボタボタと着物から滴る水に、慌てて囲炉裏から立ち上がったのは百介だ。
「また随分と濡れて。早く着替えないと風邪を引きますよ」
 乾いた手拭いを何枚か、土間に立つおぎんに手渡した。
 濡れ鼠のおぎんは嬉しそうに笑み『ありがとうね、先生ェ』と手渡された手拭いで、髪や顔を拭い、着物の裾を絞る。
 百介は全くの善意、下心など丸でないから、おぎんも多少脛見せようが胸開こうが気にしない。
 顔を赤らめて、囲炉裏へ逃げ戻る百介に、面白そうに鼻を鳴らすおぎん。
「早く奥へ行って着替えな」
 もう一人、先に帰っていた治平は奥から出て来て、おぎんに促す。
 少し前に帰って来て、やはり髪が幾分濡れている。
「あいよ」
 おぎんが素直に奥へ入ると、囲炉裏に腰を降ろした治平に沸かしておいた湯を椀に入れ、百介が『どうぞ』と勧めた。
「急に強く降り出しましたからねぇ」
「全くだ、それでも儂は早く戻ったほうだが、おぎんの様子を見りゃ又のヤツも濡れ鼠だろうぜ」
「何処かで雨宿りでもしてくれていたら…」
「しねぇよ、せっかちな野郎だからな」
 治平は熱い湯をふぅふぅ息を吹きながら飲んで、ほう、と声を上げる。
「生姜湯かぇ」
「粉薬を湯に溶かしただけですよ。風邪の引きはじめにと用意していたのが幸いでした」
 はにかむように、百介はおぎんの分も用意している。
 流石は大店の若隠居だ。旅荷の中にアレコレ要らぬ薬まで用意しておく気配りは、きっと家人からだろうが。
 隠居した百介を『若旦那』と敬い、何くれとなく世話をし続ける生駒屋の者達よりも。
『先生ェは儂達といるのが好きなのかねぇ』
 物好きな、と治平は呆れながら嬉しく感じる。その一方で、いけねぇや、と危惧を募らせる。
 闇に足を踏み込み過ぎて、深みに囚われ抜けられなくなっては遅いのだ。
 もともと百介は、陽の当たる方の住人。闇に沈む小悪党と親しくする縁はなかった筈だ。
 その筈であるのだが。
「はあ、一息ついたァ」
 奥から着替えたおぎんが現れ、絞った着物を紐に掛けて干していく。
「おぎんさん、こちらに暖かいものがありますよ」
「おや、助かるねぇ」
 手招きする百介の隣りにイソイソと座り込み、熱い生姜湯の入った椀を手渡しで受けて、おぎんはニッコリ笑う。
「いいねぇ、こんなのも。まるで先生ェと、所帯を持ったようだねぇ」
 おぎんの満更でもないセリフも、野暮な百介には通じない。
 まるっきり冗談事だと思い込んでいるから、百介は笑って軽口を返せる。
「それでは治平さんは義理の父ですか」
 百介の軽口を受けて、内心残念に思いながらも、おぎんは悪乗り。
「うんにゃ、近所の助平爺ぃ」
「おいこらっ!」
 これには納得出来ぬと、渋面しかめて治平が怒鳴る。
「でも又市さん、遅いですね」
 やはり何処かで雨宿りなさってるのでしょうか?
 心配そうな百介に、おぎんはフフフと口許を手で覆って笑う。
 治平も、ニヤリと含み笑いをして。
「又さんが帰って来たら、着替えでも手伝っておやりよ」
「そぅだな、又公、凍えて戻ってくるぜ」
「あ、はい。それならば風邪薬を用意しておきましょう」
 野暮な百介は二人が暗に示した意味にも気付かない。
 らしいったら、これほどらしいことはない。
 おぎんと治平は楽しそうに笑い、雨音に耳をすます。
 仕掛けは、この雨が上がってからがタイミングだろう。
「又市さん、遅いですねぇ」
 百介の心配して拗ねたような口振りに、また笑いを誘われ、おぎんと治平は椀の中身を味わって飲んだ。



2009.06.30 -END-
2009.08.06 再

 

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