御馳走(戴物)

□《楽屋裏にて…続x6》
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手が震える。
ゴクリ、と生唾を飲み込む音が頭の中で響いた。
これは報われぬ想いを抱える俺への神様の思し召しか、それとも恋のキューピッドの導きか。
まさかドッキリによる甘い罠じゃないだろうな…と、又市朔は受け取った台本の表紙を再度見直した。
間違ってない…多分。
経費節減の為か、内側の紙は表紙に比べ少々ザラついた手触りと黄ばんだ色合いだったが。
今はそんな些細なことよりも、紙の上にクッキリと書かれた文字に又市朔は意識を奪われていた。
“接吻”
「これって…やっぱりアレ、だよな……」
最近[おバカさん]が多いと言われている芸能界だ。
確かに又市自身も大学には行ってないし、子役上がりのまま日々役者稼業に身を置いていたおかげで、一般の高校の教養課程のどれを取ってみても、理解力と読解力が怪しい(下手をすれば中学生の問題ですら、全く解けないかも知れない)状況だが。
しかしそんな又市であってもこの言葉くらい読めるし、その上意味も解っている。
解っている筈なのだが、だが今は少しばかり、脳がその機能をフリーズさせていた。
「せっ、せっ、せっ
だがフリーズが溶けた途端、ドカンッ!!と躰の中でダイナマイトが爆発し、炎のような熱が駆け巡る。
「今回はキスシーンが有るッ!!」
接吻の相手は誰でもない、『ドラマ巷説百物語』で又市と共演している、考え物の先生役の、あの山岡百介だ。
ドラマの中では一応、又市と百介は一線を越えたという言葉以上に、幾度も熱く激しく肌身を重ねあった深い仲、と設定されているが。
だがこれまでのところ、登場人物の誰かによるモノローグやらナレーションやらで茶を濁し、そういったシーンは全く無い。
その代わり時折監督から、二人は激しくも熱い前夜を過ごしましたよ〜的なニュアンスを匂わせる演技を求められ、二人はそれに応えてきた。
それが次回の話では、初めてのキスシーン。
それも二回。
情熱的な激しいものと、互いの愛情を再確認するような深いもの。つまりどちらもディープ・キス。
これで冷静になれ、と言われても到底無理だ。
無論又市には、キスの相手が同性であるとか、話の流れでそうなってしまったとか、腐女子と呼ばれる若い世代の視聴者の獲得の為の演出だとか、そんなものは頭に無い。
それどころか。
「OK、OK、ドンと来い!」
の、乗りと勢いだ。
更には「先生ェとキスが出来るなんて、幸せ過ぎる〜」と雄叫びをブチ上げたくなる程で。まぁ勿論内心で、だが。
「何時かこんな日が来ると信じていたが、漸く俺の想いが叶うのか〜」
台本を胸に抱え又市は。
「生きてて良かった〜
というか、バカ売れしてなくても役者を続けていて心底良かった〜、と。
セットの陰で秘かに男泣きをしたのだった。


暫くして。
さすがに何時までもセットの陰で男泣きしている訳にもいかぬ、と這い出てきた又市は。
楽屋で顔を洗い目薬を注すと、何食わぬ顔で再び台本を捲り始める。
ともすれば緩みがちになる頬を、何度も引き締め直すのだが。
既にしっかりと網膜に焼き付けた『接吻』の文字に、引き締めた表情は一分と持たない。更には弛みきった口許から、ウヘウヘと情けない笑いも溢れるくらいだ。
そんな様子の又市の耳に、届く控え目なノックの音。
「おぅ、誰でェ」
「妾だよゥ…」
「何だ、おぎんか」
平素もみてェに、厚かましくズカズカ入って来ねェなんて珍しいじゃねぇか、と幼馴染みに軽口を叩けば。
「だってさァ、新しい台本を読んでガックリきちまってサ」
「読んだのかィ、アレを」
どうやら俺と先生ェのキスシーンに、余程参っているようだな…と思った又市だったが。
「百介先生ェが徳治郎の所為で物忘れっていうか、記憶喪失になって妾や又さんやとっつぁん事、何もかも全部忘れちまう、って展開になるのがちょいとねェ……」
「へ?」
思いがけない話の展開に又市は、何でェ、そりゃ…と呆けた聲を上げた。
「何をボケた聲を上げてンのサ。前に渡された台本に不備があったとかで、一昨日新たに台本を渡されてねェ。その台本に先生ェが全部忘れるって、書いてあるンだよ」
あぁそうだ、アンタの分は妾が預かっていたから、と通しナンバーも全く同じ表紙の台本を渡され、又市は周章て頁を捲る。
そこには―――。
(闇夜に忍んで来た)又市が放った非道い言葉に百介は精神をズタズタにされ、人として生きる事さえリタイアしかける。
それを憐れんだ徳治郎が、百介の記憶から自分達の事を凡て抜き、記憶を取り戻させた生駒屋に送り届ける、という話に変わっていた。
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