狩猟(巷説)

□《藪知らず》
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「良いですか、又市さん」
 口を利いてはいけません。
 後ろを振り返っても、いけません。
「ただ、この森を抜けるまで、真っ直ぐ前だけを見て進んで下さい」
 そう言いながら考物の百介先生は、手近な榊の小枝を手折り、奴の行者包みや白帷子の衿に刺していく。
「先生は?」
「私は、貴方の後に付いて行きます」
 こぅして。
 と、奴と同じ様に総髪や着物の衿に榊の小枝を刺し挟み、おまけに口にまで枝を咥えて見せた。
「名を呼ばれても、決して返事をしないで下さい」
 それは、私ではありませんから。
 随分な決まり事だが、此処の森は古よりの禁足地なんだとかで、郷人が入る事は滅多に無いという話だ。
 郷人に気付かれることなく、奴と百介さんをこの集落から“跡形も無く姿を消す”には都合の良い抜道になる筈だった。
「先生ェ、夜の山道は暗ぅ御座ンすからね。手を引いてやりやすよ」
 奴が右手を差し出せば、枝を歯で咥えた百介さんが首をコクリと縦に振る。
 繋いだ手を引いて、奴は森の中に踏み込んだ。
 ぐんぐんと、百介さんの手を引いて、真っ直ぐに森を抜けれる様に。
 後ろを振向くな、と約束事があったので、この繋いだ暖かな掌だけが、奴にとっての確かな拠所だ。
 夜の森は、樹々も静かに凪いでるし、何の変わりも無い筈だった。
 むしろ、必要以上に身構構えているのは百介さんのほうで。
 奴が手を握る力を強めると、グっと握り返してくる。
 闇の中、樹々の間を抜けて行く内に、次第次第に、奴は奇妙な心地に襲われた。
 この握る手の先には、百介さんがいる筈なのに。
 ふいに………
 不意に、この手が握るのは別な人物であるような心地がして。
 グッ、と握り返される熱い掌。
 百介さんっ………と、思わず声を上げそうになった奴の手の平に、キリっと密かに痛みが走る。
 百介さんが、握る手の爪が。
 奴を引っ掻いたのだ、と即座に理解し、また『声を出すな』と注意されていたのを思い出した。
 この森は、そんなに深くは無い。そんなに大きくも無い。
 その筈が!
 何故っ、抜けられないんだ?!
 キリッ、と幾度目かの傷みを手に受けて奴は、思いを断ち切り、正面へと顔を向け直した。
 森の樹々に切れ間が見える、あれは出口なのだろうか。
「……やっと……」
 又市さん……。

 百介さんの声に、笑んで振り返ろうとした奴は。
 繋いでいた手を荒々しく振り解かれ、強い力で背をグイグイと押し出された。
『せ、先生ェ』
 口を塞がれ、そのまま肩を抱えられ、押されるように森を走り抜ける。
 森から隧道へ、転げ落ちる勢いで二人揃ってまろび出た。
 未だ奴の口は、百介さんの片手で塞がれたまま。
 肩で喘ぐ百介さんは、榊の枝を喰い締めたまま、道の先を睨んで居る。
 ふいに、奴の鼻に届いたのは血臭だった。
 奴の、ではない。
 ならば、これはっ?
『先生ェっ』
 百介さんは、奴を見ると酷く慌てた様子で首を振り『未だ口を利くな』と己の唇に立てた指を宛てて伝えて来た。
『でも、先生ェ?』
 奴の腕を引いて立ち上がった百介さんが、
 今度は奴の手を引いて歩き出す。
 追われているのは確かだが、百介さんが恐れているのは追手ばかりではない、と奴にも知れた。
 では、何に?
 一晩歩き続けた奴達は、辻の地蔵の前に出て漸く一休みをした。
「もう、大丈夫ですよ」
 息を荒げたまま、百介さんは声を発した。
「先生ェ、怪我は?」
 奴の頭や帷子から榊の枝を取り、百介さんは地蔵の前にきちんと供えて。
「平気です、此所まで来れば」
 自分の髪や着物に刺した小枝も、やはり丁寧に抜き取ると地蔵の前へと置いていく。
 それにしては、着物の右袖が赤黒く染まっておりやすが。
 そう、奴が指摘すれば。
「何程の事も御座いません。それよりも、治平さんとおぎんさんに早く追い付きましょう」
 辻の石地蔵にきちんと手を合わせて拝むと、百介さんは未だ整わぬ息を吐いて、奴の顔を見上げた。



 さして代り映えもしない場所だが、禁足地と古より定められた場所へは、常人は足を向けないのが得策である。
 何故なら、そこは、神仏や妖怪の都合で人間の道理なぞ些かも関係無く、異界へと通じる“孔”となる事も有るからだ。
 もしも、そんな遭魔が時に人が禁足地へ踏み入ったりしたら、“神隠し”に遭うか“祟り・障り”に遭うか。
 いずれにせよ、ロクな事には為らないのである。



「先生ェっ、どぅしたんだぇ、この血はっ」
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