狩猟(巷説)

□《治らぬ病》
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『又市さん、私ね……治らぬ病に、罹っているのですよ』


≡≡≡≡≡≡≡≡≡


 又市は、勝手知ったる生駒屋離れに上がり込みながら、何とも居心地が悪くて仕方が無い。
 原因は目の前の、離れの主・山岡百介その人である。
 じ〜っ、と。
 先程から穴が開くのではないか、という位に瞬きもせず、又市を凝視し続けているのだ。
『なンだァ?』
 久し振りでやすね、と御機嫌伺いに離れの裏庭に忍び込んだ又市は、『是非ともっ』と宿場の袖引き女郎のごとくに懇願する百介の勢いに引き込まれ、ついには離れで酒の歓待を受けているのだが。
 じぃ〜〜〜〜っ。
 銚子の酒を杯にお酌しながらも、百介は又市を観察することを止めない。
 上等の酒が、何やら味も匂いも無くなる気がする、又市である。
『奴の顔に何か付いてる……って訳じゃねぇしな』
 百介にジィ〜ッと見詰められて、又市は思わず己の頬を手の平で擦ってみたりしたが。
 ついに痺れを切らした又市は、百介の手から銚子を奪い取り、立て続けに二度三度と手酌で杯を飲み干すと、タンッ、と床に杯を置いた。
 それからバッと立ち上がると、目を丸くする百介の前で、白帷子の尻捲ってからデンっと胡座をかいた。
「さぁて、考物の先生ェ。奴に何か言いたい事がァ在り為さるようで」
 伝法な口調で、正面にキチンと背を延ばして座る百介に問えば。
「あ……いえ……言いたい事、では……」
 しどろもどろで、ついっと視線を宙に浮かせる百介。
「随分と奴の面ァ、見て為さったが。何の呪いのつもりで?」
「はぁ……呪い、ではないのですが」
 困ったように総髪を掻いてから、百介は、やおら又市の正面に膝を付き合わせて、『あの、ですね』と至極真面目な顔付きになった。
「あの、ですね、又市さん……」
「へい、なんでやしょうか?」


「私は……治らぬ病に罹っているのですよ」


 さらり、と。
 告げられた言葉に、又市は凍り付いた。
それこそ、ゲンノウで力一杯脳天殴り付けられたみたいな衝撃で。
 思わず、グラリと上体が傾ぎ、又市は畳に片手を付いて、肩で息をしている有様。
 この人が――暖かな笑顔の優しい御気性の御方が――?
 治らぬ病に罹っている、だと?
 俄かに信じられぬ言葉に、又市の頭は真っ白に塗り尽くされたような気がした。
「……治せねぇ、んで?」
 掠れた声で確認してくる又市に、百介は医者に見せても無駄だと、困ったように微笑んだ。
「まぁ、そう言われてますよね」
 片手を挙げて、何か言おうと口を開き掛けた又市を遮り、百介は困ったような笑みを益々深めて、ゆっくりと、最初から話し出した。



「私もね、この病の話は人から聞いたり、書物で読んだりしておりました」
 でも、己とは縁遠い病だと、ずっとそう思い込んでおりましたよ。
 最初は、病に罹ったとは思ってもおりませんでしたし……その内に、まさかまさかの半信半疑で……実際にそぅなのだと自分で納得するのは、結構な覚悟が要りました。
 治せぬ治らぬ、と聞き及んでおりましたのでね。
 ……でも、ほら、噂に詳しい平八さんに聞いて見たら、『試せば良い』と勧められまして。



「それで、今宵、又市さんが来て下さいましたので、実際に試していたのです」
 又市は、百介の話を聞きながら、いつの間にか正座になっていた。
「試す?奴を、穴ァ開く程ォ見ていたのが?」
「えぇ、そぅいう事になります」
 又市は、大きく息を吐いて、自分を落ち着かせた。
「一体ェ、その病ってェのは」
 何なんでやしょう?
 百介は目許を赤く羞じらいで染めながら、『嫌だなぁ』と首を傾げて見せた。
「未だ、御判りにならない?」
 私の罹った病とは――
 ほぅら、巷に言う処の。
 御医者様でも草津の湯でも、治せぬ――という……

 そこまで言われて、又市は愕然とした。
『――恋?!恋の病、だと?!』
 百介の恋の相手は、勿論この自分の筈だと、歓喜の雄叫びを上げる心の裏で。
 又市の心に暗雲が立ち込める。
 巷を惑わす小悪党の“小股潜り”ではなく、何処ぞの大店の御嬢様とでも、この若隠居が恋仲にでもなったものか、と。
 その方が、俄然に確率が高く有り得そうな話ではある。
 そう考えると、又市はドス黒い感情に胸中が埋め尽くされる気がして、唇を噛み締めた。
 百介は、そんな又市の表情を見詰めたまま、静かに静かに、言葉を紡いでいく。
 又市の、澱みない降る雨や吹く風のような話術ではなく、白い紙に黒い墨跡を書き残すごとく。
 ゆっくり、と。
「平八さんが言うにはね――」
 好きで好きで堪らなくなった相手を良く良く観察して、自分が嫌な処、気に障る処を見付けていく。
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