狩猟(巷説)

□《残照》
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 黄昏時が遠退く。

 夏に向かって、陽は勢力を増し、闇を浸食する。
 話に聞く、遠い北の異国では、厳冬期にはお天道様すらも顔を出さぬ夜が続くそうな。
 蝦夷地の更に北にある、その国では、夜に淡い光の薄絹が宙空に揺れて輝くそうな。
 旅の空の下で、百介は思う。
『闇が遠退いてしまったら…陽の残照が何時までも残ったら…』
 私は―――。
 陽の下にも、闇の中にも入れぬ小心者。
 黄昏刻に佇むのが似合いの、意気地無しな身。
 それより何より。
 かの愛しい御人は、闇に棲み、夜を縦横に歩む者。
 ―――寂しい。

 只でさえ会えないのに、たまの逢瀬の刻すら削られていくのは。
 切ない…。



「陽が延びました…」
「おぅや―――」
 先生ェ、一体どぅしたんで?
 宿の中。
 分厚い帳面に何やら書き込んでいた手が止まり、やがてボソリと独白が。
 何も聞いていない風で、実は百介の極々小さな声すらもしっかり聞き付けた又市は、少し笑いを含んで問えば。
「…え…私、何か口に出しましたか?」
「…へ?」
 百介の反応に、又市はズルリと畳にのめりそうになった。
 又市に振り向いた顔は怪訝そうで、只でさえ表情に出る百介にしたら、本当に意識にすらしていない独白、だったと言う事らしい。
「陽が延びた、とおっしゃいやしたが」
『ああ』、と。
 そんな事を口走りましたか、と百介は頬を赤らめ、書き記していた帳面に目を落して、もう一度『ああ』と納得してか小さく頷いた。
 昼の内に聞き込んだ異国の噺。蝦夷地オロシア国、北前船の船乗りからの聞き込み噺。
 それを書き記していたのだった、と。
「少し…下らない考えを…」
「そりゃあ考物の案で?」
「いいえ」
 百介は、ますます困ったようで、何かを躊躇い恥じる様に頬を染め。
 何だ、と興をそそられ身を乗り出す又市に膝を動かしてキチンと向き直り、はにかんだ笑みを向けた。
「だって…ほら…陽が延びて夜が短くなったら…」

 又市さんが私の離れに訪ね来てくれる刻限も、削られてしまいますから。

「…へ…?」
 又市は、冗談もからかいも無しに言った百介の顔を、穴が開く程マジマジと見詰めた。
「そぃつぁ…」
「出来れば、ですよ。 又市さんと、昼の内から御会い出来たら、と下らない事を考えてまして」
「…そぃつぁ…なんとも…」
 立派な口説き文句だ。
 又市は、行者包みの頭を一つ叩き、クックッと喉を鳴らして忍び笑う。
「確かに。化物にゃあ陽が延びて動きが取れなくなりやすか」
「また、そぅ言う」
「なァに、誠のことで。化物妖怪変化は、黄昏刻からが動き易い」
 だから、先生ェの離れに忍び入るにァ、暗くなってからが一番で。
「でも…」
 未だ何か言いた気な百介を制し、又市はスイっと身を進ませて、愛しい人の耳に顔を寄せた。
 内緒噺のように声を潜めて。
 百介の耳に囁き落す。
「暗い方が、ね…」

 イイことも、し易い、でやしょう?

 又市は、百介の頬から顎へ、舌を這わせる。
 “イイこと”、を思い出したか、含んで言われた又市の言葉に、ボンッと音を立てて、百介は全身を朱に染めた。




-end-

 

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