水飲み場(巷説SS)

□《闘えバレンタイン》
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(もしも、江戸時代にバレンタインがあったら)



 それは物珍しい光景だった。

 ちょいやそいでは拝めないような、とんだ珍事を目撃し、おぎんは往来の真ん中で肩にしていた笈が摺落ちたのも気付かぬ程に、呆気に取られていた。
 江戸の町である。
 庶民が日々暮らす町中の、何が突飛かといえば。
「これは奇遇ですね、おぎんさん」
 今、まさにワイワイと人垣が出来ている繁盛店の中から、揉みくちゃにされながら出て来た人物が、問題なのだ。
 凡そ、普段の彼を知るものなら誰しもが『まさか』と思える場所から現れ、しかも懐に何やら大事そうに買ったばかりの品物をし舞い込むのを見て。
「せっせっ先生ェーっ!」
 おぎんは、江戸紫の袖を振り乱し笈を放り出した挙句、百介の襟を掴み掛かっていた。
「先生っ、ここでナニをっ!?」
「は?あ、いえ、買い物をしておりましたが」
「違うっ違うっ、なんだってこの店で買い物なんかっ」
「いや、だって、ここでしか売っておりませんから…」
 ぽっ、と頬を染めて恥ずかしそうに俯く百介の仕草は、普段ならば『可愛いねぇ』とおぎんも手放しで思うが、思うのだが。
「…………先生、アレ、買ったんだね」
 俯いたおぎんは、百介の肩に両手を置くと地獄の蓋でも外すがごとく、暗い声を搾り出した。
「はいはい、買って参りました。取り置きをお願いしておいて正解でしたよ、随分と繁盛しておりますね」
 百介が振り返った先、つい今し方出て来た店は、若いお嬢さん方や妙齢な御婦人や、その手の商売をしておられるような女性達が、それこそ戦場のような賑わいで商品を奪い合っている。
「先生ェ…それをお寄越し」
「は?え?」
 やおら顔を撥ね上げたおぎんの両眼は、ズンッと座っていた。
 口許に浮かぶ笑みも凄味というか、殺気が籠っていて恐ろしいっ。
 百介が思わず身を引きかけるのを、おぎんは襟首をハシッと掴み、ガクガク揺さぶりながら、腹の底から叫んでいた。
「なんだって先生が、ちょこれい糖を買うンだいっっ」
 妾があげるつもりだったのにっ、キィーッ悔しいーっ!
「お、おおお、おぎんさん落ち着いてっ」
 ガックガックと頭を振られ脳しんとう起こしかけながら、百介は必死に宥めようと声を振り絞るが。

「先生ェに告白して良いのはっ妾だよぅっ」

 女の大事の一大行事、僅かなミスも見逃せるものか。
 おぎんの、天に突き上げる拳が熱いっ。
 その仁王立ちしたおぎんの足許に尻餅ついて、ゼーゼー荒い息を吐いている百介には、災難なことである。




 生駒屋の若隠居が、この日の為にちょこれい糖を買った。
 噂が広まるのは早かった。それはもぅパッと広まった。
 生駒屋では、主人夫婦はおろか店子一同までもが、ソワソワと浮き足立つし。
 近在の若者達は皆『我こそが』と鼻息荒い。
 百介自身には知り合いは少ないが、それだけに期待が増すらしい。
 念仏長屋の治平宅では、白帷子きた札撒き御行がデヘデヘと締まりのない若気面を晒して、家主に鬱陶しがられていた。
「馬鹿か、このヌケ作。手前なんぞが義理でも愛嬌でも、告白のちょこれい糖なんぞ貰えるたぁ、考えるだけ身の程知らずなんだよぅ」
 治平の毒舌も、魂がスキップして抜け出してる又市には、全く聞こえてはいない様子。


 しかし、又市は失念していた。
 八王子から、戦装束も勇ましい百介の実兄である山岡軍八郎が、早馬にて生駒屋目指し疾駆中。
 八丁堀からは京橋界隈の馬鹿騒ぎを取り締まるべく、捕物姿の田所真兵衛が配下率いて出陣中。
 生駒屋では主人夫婦を始め、番頭手代はおろか女中や小僧までもが、各々捩り鉢巻き襷掛けで大事な大事な若旦那様のちょこれい糖を死守すべく、臨戦体制を敷いていた。
 不穏な気配を察し善良な一般町人は皆、家々に引きこもり戸に心張り棒をかけて息を潜めている。
 また真っ当な商人達は、京橋近くに店を構えた我が身の迂闊さを呪いながら、一年に一度の大厄災を乗り越えようと、この日は商いを仕舞い、板戸に釘を打ち付け店の奥で家人一同必死に神や仏の加護に縋り付く有様。


 ああ、血生臭い風が吹き荒れる京橋。
 表大通りに、ゆらりと人影が現れる。
 また一人、また一人と……渦巻く殺気とほとばしる殺意を纏い、ちょこれい糖争奪の為に死線を越える。
「先生ェーっ、奴に愛のちょこれい糖をーっ」
「百介ーェっ、兄が来たぞ。さぁ、ちょこれい糖を」
 いざ、戦場へ!
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