水飲み場(巷説SS)

□《桃の節句》
1ページ/1ページ


 一稼ぎを終え、そこそこ懐が潤った山猫回しは、笈を担ぎ直したところで、眼を見張った。
 通りの少し前方を、人込み避けるようにヒョロヒョロと歩いていた男の後ろ姿に、覚えが有ったからだ。
 若い男が着るには、地味で流行も無視した爺臭い柄。粗末な成りではないのだが、質素そのものな羽織り着物。
 総髪姿の、さて商人なのか遊人なのか、とんと得体の知れぬ風体。
 ちと悪戯心が湧いたおぎんは、足早に男の背に近付き、声を掛けた。
「ちょいと、考物の先生ェ」
 誓って、いう。おぎんを弁護するなら、軽い気持ちで呼び掛けただけ、なのだ。
 別に大声出した訳でも、真っ暗闇の夜中に声を掛けた訳でもない。
 考物の百介先生は、おぎん達が理解する以上に小心者だっただけ、なのだ。
 ぎゃああっっ!!
 通りに轟く悲鳴を上げて、先生ェ荷物を放り出し、挙句に腰を抜かしてしまった。
「へ?」
「…お、ォぉぉ〜、おぎん、さん?」
 可哀相な位、声も震えてガクガクだ。
「やだヨ、先生ェ」
 あれま、ほんに涙目になってるじゃないかぇ?
 ぷっ、と吹き出したおぎんは、百介が放り出した荷物を拾い上げ、『立てるかェ』と聞けば。
「………腰が抜けまひた」
 ぶふぅーっ。
 真っ赤になって、困ったような怒ったような何とも可愛い顔になってる百介の前で、江戸紫の袂で顔を覆うと、おぎんは盛大に笑い転げた。



「この、性悪雌狐っ」
 百介の話を聞いて、怒鳴り立てるのは又市だ。
 すっかりクラクラのフラフラになった百介は、取り敢えずは此処まで連れて来られたが。
「まさか、あんなに驚かれるなんてねぇ」
 かえって妾のほうが魂消ちまったよぅ。
「先生ェも災難だったなぁ」
 まぁ、丁度出会ったんだから良かったじゃねぇかい?
 江戸の朱引きのギリギリの場所、筵覆いの茶屋なんて名ばかりの臨時稼ぎの出店の奥で、おぎんは未だ笑い足りない様子でいたし、治平もしかめっ面で笑みを噛み潰していた。
「だから、先生ェに声掛ける前に、奴は鈴鳴らして知らせてるんだからよ」
「おぅや、知ってる口振りだねぇ」
「又公、男の悋気は野暮だぜ」
 喧しいっと又市は大声上げるが。
 なに、驚かすつもりは無くても、不用意に声を掛けては驚いて飛び上がる百介の様子が、可愛いやら面白いやら愛しいやらで、条件反射のように鈴を鳴らして自身の居場所を伝えている又市だ。
「すみません、私は小心者でして」
「そのようだねぇ」
「街中で声を掛けられるなんて、滅多に御座いませんから」
 慣れないのだ、と百介は顔を赤らめて、恥ずかしそうにモゴモゴと口を動かす。
 その様が、あどけない童女の仕草のようで。イイ歳をした男に対しては、使うべき単語では無いが。
『可愛いらしい…』のである。
「悪かったねぇ、先生ェ」
「いえ、声を掛けて頂けて嬉しいですよ」
 大分、落ち着いた百介は、治平に渡されたお茶を飲みながら『あ、そうだ』と、何かを思い付いた様子で、傍らの風呂敷包みを取り結目を解き出した。
「なんだぇ?」
「はい。桃の節句ですから、おぎんさんに差し上げます」
 渡されたのは、ハギレで作られた小さな花と、手の平に収まるような手毬の形の雛。
「あれ、可愛いねぇ」
「吊し雛、と言うのだそうです。娘が産まれた時に、晴着の切れ端とかで造られるのだそうで」
 こういう、小さな綿入れ人形を幾つも作り、吊して飾るのだそうです。
 百介から渡された、小さな桃の節句の人形に、おぎんは眼を細めて大事に大事に手の平に乗せて眺める。
「有難うねぇ、嬉しいよぅ先生ェ」
 娘の歳は超えてしまったが、おぎんは頬を赤らめて、可愛い土産に弾んだ声を上げた。
「良いモン貰ったじゃねぇか。雛遊びの歳じゃねぇけどよ」
 治平の混ぜっ返しにも『煩いよ』とおぎんは毒の無い声で返している。
 そんなに嬉しかったのか、手毬人形に頬擦りするおぎんの様子に、百介も微笑んでいた。
「治平さんには、白酒が宜しいでしょうか?」
「ま、甘いがな。そいつで勘弁してやらぁ」
 娘っ子の飲むモンだぜ、とか言いながら、治平もまんざらではなさそうで、面映ゆそうに顎を手で擦っていた。
「先生ェ、奴には?」
 ならば当然、土産が有る筈と又市は身を乗り出せば。
「あ、すみません、忘れました」
 へろり、百介に即答された又市は、内心で涙に掻き暮れる。
『忘れたって…先生ェ』
 はしゃぐおぎんと治平は兎も角、ズンッと暗くなった又市に、百介は膝を寄せて。
「あの……又市さん」
 五月の菖蒲湯…御一緒願えませんでしょうか?

 囁き落とされた百介からの御願いに、又市は三月四月とヘラヘラ締まりの無い顔を晒して、おぎんに不気味がられていた。



2008.03.04 -END-

 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ