待伏せ(やおい)

饑餓
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 饑餓は、常に又市を苛む。

 小さな童の頃から“渇き”と“餓え”を、又市は意識していた。
 武州の片田舎で、泥水を啜り草の根を掘って囓るような、貧しい水呑み百姓暮らしをしていた童の頃を、胸糞悪くなる感情と共に思い出し。
 貧しいから、腹一杯食べることがなかったから、だから饑餓を覚えているのだろうと、又市はそう考えていた。
 江戸に出て、体も大きくなって、それなりに銭を稼ぎ飯にありつけるようになっても、奇妙なことに、時折又市を饑餓が襲う。
 喉が渇く。
 腹が空く。
 水を飲んでも酒を呑んでも、又市の渇きは癒されない。
 どんな上手いモノを食べても、高い珍しいモノを食べたとしても、餓えは治まらない。
 又市は、その身の奥に饑餓を抱え込んでいるのだと、半ば諦めと共に納得した。
 満たされない心の渇きと餓えは、もはや癒されはしないだろうと。

 身に纏った白い帷子を見下ろし、又市は己を嘲笑いながら、歯ぎしりする。
 女を抱いても、馘を括った老婆が脳裏に浮かぶ。
 近所の子を抱き上げれば、ただの白い肉となった死んだ赤子を思い出す。
 死骸を抱き締め滅んだ男。活きながら幽霊と化した男。誠実でありながら、死から逃れられなかった男。
 それは、まるで。
 死神が又市の両肩に手を掛け、決して離れることなく、背後から墓場の息を吹き掛けているようで。
 餓えは募る、渇きは又市を苦しめる。
 どうにもならない、と世の理と人の常に冷笑を向けて、又市は闇に脚を踏み入れた。



「……んっ」
 褥の上で、熱く蕩けた聲を上げる、白い裸体。
 汗と吐精に塗れた胸や腹が、上下に動き、忙しなく息をしている。
 生きている、暖かな身体。
「百介さん……」
 欲情を隠しもしない掠れた聲で、又市が横たわる者の名を呼べば。
 泣き濡れた目許を朱にも染めて、潤んだ瞳が暖かな柔らかい色彩を込めて、又市を映す。
「又市さん」
 男にしては白い、ほっそりとした両の腕が持ち上がり、宙を掻いて又市へと伸ばされる。
 その腕は馘に巻き付き、我が身へと誘い墜とそうと健気さと必死さを重ねて、又市に縋る。
「……奴は、餓えてるンで……」
 御身に。
 陽の当たる場所に暮らす、確かな身許の愚直なまでに真っ当な御人に対して。
 これ程までに、“餓え”を感じている。
 百介の身体に重なりながら又市は両手で、決して女のようには柔らかくもない肉を弄ぶ。
 百介は、裡に抉り込む又市の楔を受け止め、喉を反らし涙を零した。
「あ、アッ、アー」
 又市の耳に心地良い、歓喜の混じる百介の悲鳴。
 もっと聞きたくて泣かせてしまいたくて、業と荒々しく突き上げれば、ヒシッと背にしがみつく両手の藻掻く様さえ愛惜しくなる。
「奴はァ……渇いてるンだ……」
 貴方に。
 百介の言葉に、想いに、仕草や態度。そぅ何にも可にも。
 あっ、と叫んだ百介は背を丸めて熱を吐き出そうとするが、それより素早く、又市は屹立する根元をギチリと指で握り締め、達することを阻んだ。
「い、やァアーッ」
 離してくれと、苦しいのだと。
 力の籠らぬ百介の指が、根元を締め付ける又市の手の甲をカリカリと掻く。
 ほろほろと、頬に涙を伝わせて、必死に懇願する百介の顔に。
 又市は口付けを落としてから、滅茶滅茶に腰を振り立てた。肉鞘の内を、強引に掻き回しもした。
 喘ぎ叫び懇願し、淫らにくねりのたうつ百介の四肢。
 歓喜に蕩けて歪む表情は、百介が又市だけに見せる、又市の為だけの顔だ。
 “餓え”は満たされ、“渇き”は癒される。
 又市の心が、ヒタヒタと溢れかえるもので満たされて、埋め尽くされていく。
「もっと…もっと、くだせぇっ…」
 奴に、くれて欲しい。
 一生分を。
 寄越して欲しい。
 そうしたら。
 饑餓の余りに百介を、死の闇にまで引き込むことを、又市は思い止どまれる。

『…本当に?』
 又市の背に張り付く死神が、屍の吐息を吐いて嘲笑う。
『本当に?満足出来るかぃ?』
 満たされた餓えと渇きは、更に貪欲に求めるだろう。
 癒す相手を、欲するだろう。
『満足、出来るのかぃ?』

 百介を抱き締めて。
 死骸となっても骨となっても、抱き締めて決して離さないで。
 闇の底に、二人で沈んでしまえたら。
 饑餓は…又市から、消えるのだろうか?

「……奴を、癒して下せぇ」
 熱に浮かされたような又市の言葉に、百介は己の総てで縋り付く。
 抱き締めて、口付けて、肉の交わりを悦楽と共に。
 それを繰り返して、又市の心の饑餓を埋めてしまえたら……
 風のような彼は、百介の許に、止どまっていてくれるのだろうか。
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