待伏せ(やおい)

闇宗主・百介《酔う》
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 白い丸椀を取り上げた手が、濡れた唇へと運ぶ、しなやかな動き。
 椀の中の紅い液体を一口含み、奮い付きたくなるような形の良い唇が、ふっと笑みを浮かべた。
「般若湯かぇ…」
「異国の酒です。昔の貴人が『これは我が血』と語ったとか」
「血の色…だからねぇ」
 百介は、もう一口と異国の酒を椀から飲むと、ほぅと息を吐いた。
「如何で御座いましょう?」
「旨い、ね」
 百介の言葉に、『お気に召されて何より』と喜三郎は恭しく頭を下げる。
「この処、御元気が御座いませんので、気鬱の病かとも案じておりました」
 ああ、それは。
 心配そうな喜三郎に、百介はフッと怪笑みを向けた。
「暫く又市さんと逢ってないからね」
 口寂しいんだよ。
 ニィッ、と吊り上げられた口許から、まるで牙でも覗きそうな言葉を告げる。
「ならば、遊の里にでも」
 綺麗な遊雌とも戯れて来られては?
 そう口にした喜三郎だが、宗主の好みは把握している。
 綺麗な容姿だけでは、百介は気に入らない。
「余程にお気に入られましたか」
 あの、似非御行風情を。
 経文で尻を拭くような族ですぞ。
 喜三郎の諫めなど、百介には些かの痛痒すら感じないらしい。
「あの人の吐精はね」
 私にとっては甘露な美酒、なんだよ。
 くくくっ、と目を細め、如何にも愉しそうに百介は笑んで見せる。
「宗主様」
 平伏はしたが、しかしそれでも喜三郎は納得した訳では無い。
「何とも御粋狂な事で御在いますなァ…」
 私ならば、あのような穢(むさ)い族よりも、歳若い娘の方が余程…と喜三郎が呟くが。
「し、失礼致しましたッ」
 我が身を省みず、差し出た口を利いてしまったと、周章ふためきながら再度平伏する。
 だが案に反して、百介は表情を変える事も、ましてや激昂する様子も無く、『それで』と、先を促した。
「わ…若い娘ならば肉も柔らかく……」
「それから」
「血も躰も、熟れきる前特有の、極上の香りと味が愉しめますでしょう…と」
 更に魂ともなれば…、と。
 喜三郎が其所まで口にした処で、冷ややかな聲が耳朶を打った。
「牙が伸びておるぞ」
 ヒトを模すのであれば、最後まで成りきるよう、心致せぃ。
「御宗主ッ」
 一度許して頂けた為に、つい気を緩め過ぎてしまったと喜三郎は気付いたのだが、時は既に遅く。
 見苦しいッ、と。
 短くはあるが鋭く一喝されて。
 ひぃッ、と喜三郎は。
 微闇の中に落とす影まで、氷つかせたのだった。
『酔狂も極まれり……』
『あのような人間ごときを御側に置くとは……』
『ほんに、宗主様も戯れが過ぎる……』
 部屋の四隅の暗がりから、ぶつぶつと声が沸き出し闇に棲む妖しの者共が、ボコボコと姿を見せる。
「不満そうだね」
「し、仕方も御座いません。皆、御宗主の身を案じているので御座います」
 全身を脂汗に塗れさせながら、喜三郎はこれだけは伝えなくば、と必死に震える声を張り上げた。
「御身は貴き御方」
 海従わせ、山従わせ、命すら自在する闇を統べる御宗主様。
 対して、人と言うものは。
 醜く生き、浅ましく果てる、短命にして愚かなる生き物。
 我等とは、在り様が違う、と。
「そぅだねぇ…」
 ふと手にした椀に視線を落とすと、片手の指を酒に浸し、百介は四方の宙へと雫を弾く。
 何とも満足気な溜息があちこちから溢れ、沸くように蠢いていた闇が瞬時に消えた。
 それを眺めるともなく、宙空に視線を廻らさせて、百介はポツンと呟くように口にした。
「…私はね、貪欲なんだよ」
「存じております」
「底無しの淫を持つしね」
「承知しております」
「だから…」
 だからこそ。
 あの御行が良いのサ。
「……御宗主……」
 喜三郎の困り果てた溜め息に、百介は童のように無邪気な笑い声を立てた。
 そうそう。
「以前、兄上と又市さんと三人で遊んでいてね、“二本挿し”をされた時は、思わず“角”を露顕してしまった程さ」
「はあ?!」
 喜三郎は、クスクスと楽しそうに笑う百介を、呆れたと軽く睨んだが。
「良く……、生きて居られますな。兄君は、貴方様の血と同じであるから助かっていたのでしょうが…」
 ただの人が、御宗主の真陰を見て正気でいるとは。
「だから、又市さんは私にとっては、特別なんだよ」

 だから、喜三郎。

「又市さんを、呼んでおくれ……早く、この酒で、二人で酔いたいんだよ」
 にぃ〜っ、と吊り上がる口許は、闇宗主としての百介の、妖艶な美しさを際立たせる。
『やれやれ』と首を振った喜三郎は、それでも御宗主の意に従うべく、その場に静かに平伏した。



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「異国の酒?」
「はい。知り合いから別けて頂きましたので」
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