待伏せ(やおい)

現代版巷説《風邪》
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 かたん、と。
 枕元で聞こえた小さな物音に、山岡軍八郎の意識が戻る。
「…兄上、気が付かれましたか?」
 控え目な声と共に、そっと枕元から優しい仕草で手が伸ばされる。
「…百介?」
 額を撫でられ、軍八郎は漸く覚醒した。
「はい」
 お仕事が大切なのは判りますが、私にはそれ以上に兄上の身が大切です。
「ああ」
 そうか、と。
 山岡軍八郎は額に充てられた弟の気遣わし気な手に、自分は風邪を引いて寝込んでいたのだ、と意識が繋がった。
 額に乗せられた百介の手に、布団から出した己の手を重ねて、『付いててくれたのか』と聞けば。
 良くお休みの様子で、安心しました。
 と、柔らかな笑みが返る。
「熱は下がったようですね。何か召し上がれると良いのですが」
 普段は若さと体力に物を言わせて精力的に仕事をこなす軍八郎だが、風邪将軍には敵わなかったらしい。
「喜三郎さんが心配して、私に連絡をくれたんですよ。兄上の熱が下がらなくて、食事も満足に取れない様子だ、と」
 とても心配して、こうして駆け付けたのですから。
 百介は、大きく息を吐いて『無茶は為さらないで下さいね』、と懇願する口調になった。
 祖父の代から山岡家に執事として働いている喜三郎は、無茶に無茶を重ねて風邪を悪化させた主人の身を案じて、唯一のストッパー役である実弟の百介を実家に呼んだ、ということだ。
 天にも地にも、二人だけの兄弟である。
 “一人置き去りにされていく寂しさ、哀しさ”を誰よりもトラウマとして抱え込んでいる百介にとっては『実兄が倒れた』というのは凶報に他ならない。
 百介の憂いを帯びた眼差しに、軍八郎は『大丈夫だ』と微笑を浮かべて頷いて見せる。
「医者には診てもらったんだがな」
 仕事が立込んでいて、食事や睡眠の時間を削っていては、幾ら薬を飲んでいても回復は遅れるだろうに。
「風邪が治るまでは、キチンとお休み下さい。私も側に付いてて看ておりますから」
 では、薬を飲んで軍八郎がグッスリと寝て居る時も、亡き母が幼かった頃にしてくれていたように、ずっと百介が、病床に付いていてくれたのか。
 思わず軍八郎も顔が緩む。
「少し腹が減ったか」
「おたきさんが、おじやを用意してくれてますよ。今、お持ちしますね」
 嬉しそうに笑って、百介は食事を運んでくれるよう喜三郎に言いに行く。
「そうか…来てくれたのか」
 呟く軍八郎は、寝返りを打ちながら楽しげな笑みを浮かべる。
 つまりは。
『当分は、あのヤクザ上がりの男(又市のこと)の元へは戻さんっ』気でいるし、直ぐにでも全快して、『たっぷりと兄弟水入らずの甘い一時に浸ろう』というプランではあるが。
「まあ、追っ付け田所が『事件だーっ!』と呼びに来るまでは、好きにさせて貰うとしよう」
 山岡軍八郎、なかなかに我が儘な漢なのである。





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