待伏せ(やおい)

□闇宗主《夜泣き桜》
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 闇の中で泣き声が響く。

 はらり、はらり、と。
 淡雪のように舞散る花びらのその向こうで、微かに嗚咽混じりの泣き声がして。
 その声に導かれるように百介、いや闇宗主が艶やかな総髪を靡かせ、墨よりも昏く沼よりも澱んだ闇が満ちる地に降り立つ。
 ざざっ、と。
 どろりと生き物めいた闇を纏い付かせた姿が、降り積もった柔らかな花びらを容赦無く踏みにじり、血の如き赤い光彩が闇の奥をひたと見据えた。
「うぬが、この私を呼び付けたモノか」
 私がその気になれば、一睨みで簡単に消し飛ぶ小物の分際で、と言外で匂わせれば。
 闇の中で淡い燐光を放つ『泣き声』の主が、凍気を纏う聲に脅え、ふるり…と揺れる。
《お許し下さいまし…》
 不意に幽けき聲がして。
 闇の中より現れた小柄な老人が、己の纏う淡い色合いの小袖の陰に『泣き声』の主を包み隠すと、氷の如き冷たき声色の闇宗主の前に跼く。
「それは何の酔狂か、古木の分際で。その程度のことで『それ』を庇いきれると思っての仕種か」
 この私を前にして、と聲以上の冷ややかな視線に曝され、老人の姿を模倣した桜の古木が、ぶるり、と身を震わせば。
 古木の震えを自身の震えと思ったのか、両の小袖の中に匿われた『泣き声』が、更に甲高いものとなった。
 ひいぃ…、ひいぃ…、と細く尾を引く声に、煩わしそうに闇宗主の顔が顰められる。
「ふん…ヒトの成れの果てか、それともヒトのなり損ないか」
《後の方に御座います…》
 これ、は女の肚より流れた哀れな胎児<こども>で御座います。
 銀の水を使い、無理矢理胎の内から流し出され、そして血塗れの姿のまま吾の根本に打ち捨てられた、行き場の無い寂しいこどもの魂で御座います…。
「……堕胎か」
 ふぅん…と呟き、小袖の奥を見透かす眼差しで視るが、そこに感情は全く込められていない。
「それで、私に何をさせようという心積もりだ」
 これ程まで不躾に呼び付けたからには、それ相応のものがあってのことだろう、と光る眼を向けて真意を質せば。
 申し訳御座いません、と老人は小袖の中の光ごと大地に平伏す。
《このモノは分別どころか、世の流れも闇の理も、何もかも凡て理解出来ぬこどもで御座います》
 勿論、御宗主様を呼び付けよう、などという不遜な考えは全く持っておりません。
 これ、は泣くことしか出来ぬ存在<モノ>。歓びも怒りも楽しみも無く、哀しいという意味さえも解らぬまま、ただ泣くことしか知らぬ哀れな存在で御座います。
 しかしながら、この泣き声が御宗主様を苛立たせてしまったことは、紛れもない事実。
 ですが、どうか御容赦くださいませ、と大地に顔を擦り付けて懇願すれば。
「あくまでも『それ』を庇うか」
 なり損ないとは云え、それは所詮ヒトだ。喩え魂だけの姿であっても、妖しとは相容れぬ存在。
 何時かは『成仏』とやらになって、あっさりとうぬの傍から消え去るか、或いは醜悪な『悪鬼』と変化<へんげ>し、ヒトと妖しの区別なく害なす存在となるか、と。
 ヒトの胎内より産まれ出た闇宗主が、皮肉な口調で云い放てば。
《どちらとなっても構いません……》
「構わぬ、と」
《はい…。このまま静かに成仏するのであれば、次は野の花でも獣でも何でも良い、哀しい泣き声を出さぬ存在となれば良いと、願うだけで御座います…》
「ならば、悪鬼となった時はどうする」
《その時は……その時は吾の躰ごと、消し去っていただけませぬか》
 喩えこの者が救いの無い悪鬼と成り果てたとしも、吾が最期のその時まで抱き締めていたならば、心穏やかな末期を遂げる筈と、そう考えております故……》
「そこまで考えておるのか……。されば今回は貴様の顔を立て、私を呼び付けた無作法を不問にしておこうか」
 だが二度目は無い。違えた場合は『それ』と貴様だけで無く、この辺り一帯の同族を凡て喰ろうてやろうぞ。
 闇宗主の赤い光彩が、氷の刃となって平伏す老人の躰に突き刺さり、放たれる言葉のひとつひとつに込められた冷気が、老人の躰を包み込む。
《わ…解っております。ヒトの生気も妖しの妖気も、そして吾ら樹木の霊<たま>でさえ、御宗主様にとっては掌の上の玩具》
 吾ら凡て、この世に留まることを御宗主様より赦されただけの存在にすぎません。
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