狩猟(巷説U)

□《黄泉帰り》
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 又市は、百介の手の平に唇を当てて喋ることで、言葉を伝え合うことに成功した。
 百介は喋れる。ただ、相手が話す言葉を、耳で聞き取れないだけだ。
「先生、色々と聞きたいことが御有りの様子ですが、まずは思い出して下せぇよ」
 そう又市に伝えられて、百介は首を傾げた。
「思い出す?何を?」
「奴が、先生の御側に参上するのが、遅れた理由でさぁ」
 はて、と百介は思い出そうとするが。
「申し訳ありません。今が何時なのかも、私は判らないので」
 そうか、と僅かに戸惑う又市。
 噛んで含めるように、百介に現実を告げた。
「先生……京橋の大店が焼けたのは、覚えてやすか?」
「焼けた……火事が……あ、ああっ」
 百介は、大声を上げて顔を歪めた。
 思い出したのだ!!
 京橋界隈で火事があった夜のことを。


†††††††††


 夜半にけたたましく半鐘が鳴った。
 じゃんじゃんじゃん、と三回鳴って一拍置き、また三回。
 離れで寝ていた百介は飛び起きた。
 その頃には、半鐘の音は切迫した、ジャランジャランというものに変わっていた。
 これは近い、危険だと障子窓を引き開ければ、夜空は真っ赤に焼けているではないか。
 急いで、寝間着の上から着物を羽織り、旅に持って行く大事な帳面と矢立てを掴み、百介は離れから母屋へ駆け出した。
「喜三郎っ」
「若旦那っ、火の回りが早いようです。急いで逃げて下さいっ」
「店の者は?」
「皆、避難先に行かせます。若旦那も急いでっ」
 江戸は火事が多いから、何かがあった場合の為一時的に身を寄せる避難場を、生駒屋でも予め家人や店で働く者達全員に伝えてある。
 百介は、喜三郎夫婦の娘であるおみよと店の台帳を背負った手代達と共に、火の粉の降る中、通りを走り出した。
 通りは大荷物を抱えたり大八車を押したりする者、逃げ惑う者でごった返している。
 あちこちで家が焼け潰れていく。
 火が、こちらに迫って来たようで、ドッと逃げ出す人の渦に飲み込まれ、手代達とはぐれてしまった百介だが、おみよの手だけはしっかりと握り締めて離さなかった。
「若旦那様っ」
「おみよさんっ、しっかりっ」
 おみよの手を引いて、百介は人を掻き分けながら、押し潰されないように逃げ回った。
 風向きが変わったら、ここも火に呑まれてしまう。急いで風上に逃げなければ。
 狂ったように打ち鳴らされる半鐘の音。逃げ惑う人々の叫び喚き怒号の声。焼けて崩れる家並み。
 おみよを庇いながら、百介は人や荷物に押され、何処をどう逃げているのかも判らなくなる。
「あっ」
 ドドッと近くの家が焼けて、熱と煙が押し寄せる。
 前が見えなくなって咳き込む百介の手から、おみよの手がもぎ離されてしまった。
「おみよさんっ」
 あっ、と言う間もなく、何かに背を強打され、百介は地面に倒れてしまった。


†††††††††


「そうでした、私は気を失って……じゃあ、私の目が見えないのも音が聞こえないのも、あの火事のせいですか?」
「……そのようでやすね」
 倒れた弾みで頭を打ったか、百介の行方を方々探し回った喜三郎達に見付けられた時には、意識も戻らずに避難小屋で眠り続けていたそうだ。
「ああ、喜三郎さん達は無事なんですね。おみよさんも?」
「へい、店の者も皆無事に避難出来たそうで。ただ、先生が…」
 火傷は小さく済んでるようだが、煙か火の粉にやられたのか、目が覚めた百介は、目も耳も、その機能を失ってしまっていた。
 生駒屋も燃えてしまっていたので、避難していた寺で最初は面倒を見ようとしたのだが、百介が非常に怯えて誰も近寄らせようとはしなかった。
 時に暴れて逃げだそうとするので、仕方なく百介は生駒屋の寮に移され、世話人を何人か付けられていたのだが。
「生駒屋さんでも、だいぶ難儀した様子でしてね」
 なにより世話する人も百介も、互いに意思疏通も図れず全く歩み寄りも出来ない状態に、結局は又市が此処に来るまでに、全員が御暇を乞う事態になっていた。
 と、そこまで説明され、肩を落とした百介は、又市に顔を向ける。
「又市さんは、何故、此処に?」
「…先生の御世話をする為でやすよぅ」
「え?」
 思いがけない言葉に、百介は又市に再度尋ねた。
「生駒屋主人から仕事を受けやしてね。『目も耳も利かない隠居を、一生世話してやってくれ』とねぇ」
 手間賃も前払いで頂やしたよ、と又市に言われて、百介は驚く。
「え?でも、それは」
「追っ付け、おぎんもとっつぁんも、この寮に来やすよ。安心為せぇ、奴達で先生を御世話致しやすから」
「た、確かに今の私は一人で生きて行くのは難しいでしょうが、何も又市さんがそんな仕事を請けなくても」
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